2019/04/17 日記  パリ ノートルダム大聖堂が炎上 - 菜花亭日乗
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菜花亭日乗

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2019-04-17 (Wed)  23:50

2019/04/17 日記  パリ ノートルダム大聖堂が炎上

2019/04/17 (水) 旧暦: 313日 祝日・節気: 土用 日出: 506分 日没: 1815分 月出: 1544分 月没: 352分 月齢: 11.76 干支: 甲申 六曜: 先負 九星: 六白金星

今日のあれこれ: ノートルダム大聖堂の炎上


「パリのノートルダム大聖堂が炎上」


https://youtu.be/JQs4pVUY_x8



『【ノートルダム大聖堂火災】セーヌ川岸に数千人のパリ市民集まる 祈るキリスト教徒も

 【パリ=三井美奈】フランスの象徴が焼けた-。パリ・ノートルダム大聖堂の火災と損壊は、フランス国民に大きな衝撃を与えた。消火作業は出火から10時間後の16日朝も続き、セーヌの川岸には多くの市民が集まり、焼け焦げた聖堂を見守った。

 フィリップ・マルセ神父は15日午後7時半ごろ、聖堂隣の執務室で異臭に気づき、中に入って仰天した。出火から約30分後のことだった。

 「まるで爆撃のよう。炎があっという間に広がりました。祭壇の大きな十字架が光って見えました」と回想する。聖堂はミサ終了後で、中に人はいなかった。「とにかく聖遺物を救わねば」との思いで、宝物殿に走ったという。

 消火作業の間、聖堂周辺は閉鎖されたが、川岸には数千人のパリ市民が集まった。ひざまずいて賛美歌を歌い、祈りをささげるキリスト教徒もいた。21日はキリスト教の祝日「復活祭」にあたり、聖週間を迎える直前だった。

 16日朝、会社員のキュベロ・フランシスコさん(54)は大聖堂を見て、立ち尽くした。見慣れた緑の屋根がなくなっていた。「毎朝、聖堂の前を通って通勤していました。尖塔(せんとう)からパリの風景を眺め、この街に生きる喜びを感じたものです。心に穴が空いたようです」と話した。

 付近の小売り店員ジュリエット・パニエさん(54)は「子供の頃から、毎週水曜日に礼拝に行っていました。聖堂は心のよりどころです。800年以上パリを見守っていた建物が、焼けてしまうなんて信じられません」と声を詰まらせた。小雨の中、周囲には焼け焦げた臭いが漂う。燃えてしまった「パリの歴史」を前に、抱き合って涙ぐむ人も見られた。』
(産経新聞)


今日のあれこれは、どうしてもノートルダム大聖堂の火災だ。

歴史的建造物の炎上というと、日本人の場合、金閣寺を思い出してしまう。
 しかし、フランス人にとってのノートルダム大聖堂の炎上は、建物の消失では終わらない精神的な衝撃がある。

燃えることには、単に物の消失には終わらない、歴史的な意味やドラマの総体がある。

壮麗さを極めた安土城の炎上は、織田信長という歴史の主人公の消失でもあった。


これは、個人的レベルだが、永井荷風にとっての「偏奇館」消失ドラマだ。

1945
(昭和二十)年三月十日の東京大空襲により、荷風は当時住んでいた木造二階建ての洋館「偏奇館」を消失した。
 67歳であった荷風は、父親の遺品を含めた膨大なコレクションや蔵書を嫌にして失い、その炎上を見ていた。

「三月九日。天気快晴、夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初(はじめ)長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出たり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火粉は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃してやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月(せんげつ)凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中には平生顔を見知りたる近鄰の人も多く打まぢりたり、余は風の方向と火の手を見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴し偏倚館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはずれに立ちわが家の方を眺る時、鄰家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリツパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつゝあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつゞいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てゝ逃げ来りし由を告ぐ。余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、」

荷風は断腸亭日乗に感慨は残していないが、偏奇館の消失は建物火災だけではなく、自分の存在の欠落に通じるものであったことは確かだ。



【データ】

ノートルダム大聖堂 (パリ) Wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A0%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82_(%E3%83%91%E3%83%AA)


ノートルダム大聖堂の火災 
Wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A0%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%81%AB%E7%81%BD




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最終更新日 : 2019-04-18

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