2019/02/25  日記  深良用水と「歴史の真実」 - 菜花亭日乗
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菜花亭日乗

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2019-02-25 (Mon)  20:20

2019/02/25  日記  深良用水と「歴史の真実」

2019/02/25 (月) 旧暦: 121日 祝日・節気:  日出: 616分 日没: 1731分 月出: 2347分 月没: 953分月齢: 20.25 干支: 癸巳 六曜: 先負 九星: 九紫火星


今日のあれこれ: 深良用水と「歴史の真実」

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深良用水の隧道の出口
裾野市HP
http://www.city.susono.shizuoka.jp/kanko/2/4/2/3164.html
より転載


「深良用水水中動画(裾野市)」


https://youtu.be/PbHOJsdQp6M



2
25日は、1670(寛文10)年深良用水の難工事が終わった日である。

深良用水は、湖尻峠に約1200メートルのトンネルを掘って、芦ノ湖の水を富士山麓の村々に給水するために造られた灌漑用水であり、350年後の現在でも機能を失っておらず、当時の日本の土木工事技術水準の高さを示している。2014年には
「世界かんがい施設遺産」に登録されている。


深良用水は、現在も目の前に存在し流れている。
その存在を疑う事はできない真実である。
しかし、その造られた由来や経緯など歴史上の真実となると話は違ってくる。

現在の用水の管理者である裾野市のHPでは、次のように書いている。
http://www.city.susono.shizuoka.jp/kanko/2/4/2/3164.html

『芦ノ湖の水を静岡県側へ流すために、1666年から約4年の歳月をかけ湖尻峠の下に掘られたトンネル。全長1,280メートルにと、出会いに1メートル程の誤差しかなかったと言われ測量技術の精度の高さに驚かされる。この用水は、深良村の名主・大庭源之丞が幕府と小田原藩の許可の下、箱根権現の別当快長の理解と江戸浅草の商人・友野与右衛門の協力を得て完成。かんばつに苦しむ農民を救ったと言われている。』


農水省のHPでも次のように書いている。
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_kakuti/13_fukara/

『今から346余年前の寛文10年(1670年)四代将軍徳川家綱の時代、浅草の商人友野与左右衛門は、現在の静岡県裾野市深良の名主大庭源之丞の依頼を受け、水田の用水不足にあえぐ静岡県駿東地域(現在の御殿場市、裾野市、長泉町、清水町)の農民のために、約3年半の歳月と総工費約7,400両、延べ約84万人を投入して、神奈川県の芦ノ湖の水を静岡県裾野市へ導く、全長1,280m(高低差約10m)の水路トンネルを完成させました。
工事は両口から手掘りで行われたにもかかわらず、約1mの落差で結合しており、当時の驚くべき技術の高さを物語っています。』


しかし、Wikipediaの記述者は、違う説を唱えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%89%AF%E7%94%A8%E6%B0%B4

『箱根用水は、駿河國新風土記や駿河志料によると、小田原藩御厨代官所の小山源兵衛によって立案された。そして、稲葉家引き送り書(貞享三年)に記載されている江戸の町人四名の者達、即ち浅井佐次右衛門、友野与右衛門、須崎源右衛門、橋本山入らが請け負った町人請負の新田開発であった。掘抜き工事は、小田原藩用水奉行小山源兵衛の指揮のもとに寛文六年七月に始まり、同十年四月に掘抜きが完成し、同十一年五月に初めて通水し、翌十二年五月になって十分な水量の用水が、芦ノ湖より深良村へ流下するようになった。今まで箱根用水の御発起と、伝承されてきた深良村名主大庭源之丞であったが、実際は箱根用水の成立には全く無関係であった。』

小田原藩による町人請負を利用した新田開発のための用水工事であり、名主の大庭源之丞は無関係であると言う主張である。

そして、明治に入り、明治政府の富国強兵政策を背景に、水利権を争う静岡県と神奈川県の争いが1896年(明治29年)に起き、訴訟になった。
1898
年(明治31年)に、大審院判決により、静岡県の深良村外六ケ村水利組合が勝訴したが、その裁判過程で静岡県側に立った多くの偽造文書が作成され、歴史の改ざんが行われたと記述している。

また、それは水力発電を進める明治政府の国策が背景に在り、紛争に介入した富田鉄之助は、『実は東京水力電気という電力会社の中心人物で、箱根用水を水力発電として利用する事を自ら計画していた』と書いている。


町人請負の中心人物であった友野
與右衛門のその後についても、歴史の闇のような側面が存在する。
工事完成後、新田開発が計画通り進まなかったために、水利権の利用料が集まらず経営が苦しくなった。與右衛門は100両を横領したとの科を問われ、幕府の命によって江戸へ送り返され、鈴ヶ森で打首になったと伝えられている。


「箱根用水と友野与右衛門」で泉秀樹氏は以下のように書いている。
https://www.tkc.co.jp/kaze/backnum2002/koramu11.html

『与右衛門ら元締たちは破産状態になってわずかな金を横領した料で処刑されたというが、その後の行方も死に方もわからない。
五代将軍・綱吉は貞享4年(1687)に町人請負新田の停止、幕府年貢総決済の命令を出している。幕府の方針は国役普請や諸大名に経費を負担させる手伝普請に転換してゆく過渡期にあった。町人が中間で利益を抜く請負は士農工商の身分制度下では不都合だったから闇に葬られたのかもしれない。』

その後、1713年(正徳元年)に、用水を利用できる百姓たちは、建設した元締たちを供養するために芦ノ湖水神社を作り友野与右衛門たちを祀っている。
伝えられている脇指は友野与右衛門のものとされる。


そして、現在も芦ノ湖湖水神社はそのまま在り、深良用水は用水として、また電力発電用としても流れ続けている。






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最終更新日 : 2019-03-15

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