FC2ブログ

  • 2014年05月 の記事一覧

2014年05月31日(土) 記事No.2827

2014/5/31 () 旧暦: 53 祝日・節気:  日出: 427 日没: 1850 月出: 629 月没: 2043 月齢: 2.35 干支: 壬寅 六曜: 先勝 九星: 六白金星

今日の季語: 五月尽

「野鳥が囀り水芭蕉の花が咲く戸隠森林植物園・4K撮影」

http://youtu.be/Tulzsw3vnJs


『五月尽

読み方:ゴガツジン(gogatsujin)

五月が終ること

季節 夏』(季語・季題辞典)


五月尽の俳句;



・あれこれと計画倒れ五月尽  濱田ヒチヱ



・五月尽ものぐさ癖のぬる朝湯 永井龍



・糠床に塩をふり足す五月尽  保坂加津夫



・あつさりと紐の解けて五月尽  代田青鳥



・嫁ぐ娘が父に酒つぐ五月尽  伊藤一歩




今日で五月も終わり。
爽やかな五月の風と新緑に誘われて、高原や海に足を運んだ人も多かったはずだ。

色々と計画をしたのだが、上手く行かなかった濱田のような人も多かったに違いない。物事は計画通り行かなくても困ることはない、計画することに喜びはあるし、もう一度計画すれば喜びは2倍になる。

俳人たちの五月尽も様々だ。
何も遠出しなくとも落ち着いていつも通りに朝湯に行く。
いつも通りに糠床の手入れをする。
これでも充分だ。
縺れが解ける日も来ることもあるさ。
娘がお酌をしてくれることだってあるかも知れない。
爽やかな五月、何をしても気持ちが良い。

筆者は前半はもたついたが、後半は計画通り沖縄に行った。
そして元気を貰って帰ってきた。
爽やかな五月だったといえるだろう。

今日は真夏のような暑さの五月尽だった。
明日からは梅雨を待つ日に入る。
計画倒れを恐れず、計画を立てよう。




(2)日記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月30日(金) 記事No.2828


今日は旅行最終日だが、JTA252便が11:55那覇発なので、何も予定はしない。
ただ帰るだけの移動日。

朝食を済ませるために7:30にホテルを出て、いちぎん食堂に行く。

clip_image002
空は曇っているが、昼からは恐らく晴れるだろう。

clip_image004
歩いていると、住宅や店の前に植えられた花が綺麗だ。

clip_image006
煮付けが食べたくなったが、嶺吉食堂はなくなってしまったので、手軽に食べられるのはいちぎん食堂だ。

煮付けは満足だったが、雰囲気が変わっていた。
24
時間営業の8時前の食堂はマナーの悪い若者たちの溜まり場になっていた。
毎朝こうした状態だと、営業にも影響がありそうだ。


ホテルでデータの整理をし、荷造りを済ませて、10:00前にはチェックアウトした。

帰りのJTAは、いつもと違って楽しめなかった。
往路のANAとは違って満席で、座席も3列の真ん中。
不幸にも両サイドは、太目のオジサンだ。
加えて、キャビンアテンダントが、今までで最も感じの悪い人だった。こんな人もいるのだ。
2
時間辛抱すれば済む話なので問題ではないが。


今回の旅は、沖縄の近海マグロと月桃の花が目的だった。
100
点満点とは行かなかったが、4日目に急展開があり80点位は達成できたので良しとしよう。
残り20点は、美ら海マグロの生の中トロと月桃の花を手にとって握りしめることだ。
今年のシーズンは終わりなので、来年以降のお楽しみとしよう。



   沖縄旅行記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月30日(金) 記事No.2829

2014/5/30 () 旧暦: 52 祝日・節気:  日出: 427 日没: 1849 月出: 538 月没: 1957 月齢: 1.35 干支:辛丑 六曜:赤口 九星:五黄土星

今日の季語:杜若

「神戸市垂水区 多聞寺の杜若(かきつばた)on2014-5-7

http://youtu.be/SSRFVHKd8VA



『カキツバタ(燕子花、杜若、Iris laevigata)はアヤメ科アヤメ属の植物である。

解説
カキツバタは湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。内花被片が細く直立し、外花被片(前面に垂れ下がった花びら)の中央部に白ないし淡黄色の斑紋があることなどを特徴とする。

愛知県の県花でもあり、三河国八橋(現在の知立市八橋)が『伊勢物語』で在原業平がカキツバタの歌を詠った場所とされることに由来している。在原業平が詠んだ歌は以下の通り。

   
から衣
   
きつつなれにし
   
つましあれば
   
はるばる来ぬる
   
たびをしぞ思ふ

江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立しており、古典園芸植物の一つでもあるが[要出典]、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなかった。現代では再び品種改良が進められている。

漢字表記の一つ「杜若」は、本来はヤブミョウガという別種の漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものである。』(Wikipedia


杜若の俳句:




・水底の雲より立ちて杜若  柴田久子


 




・遠き世も一睡にして杜若  寺田すず江


 




・金箔の残る仏や杜若  沼田巴字


 




・むらさきは雨似合ふ花杜若  玉置かよ子


 




・杜若にこぶ白鳥の番かな  西垣順子





今日は暑い日だった。
杜若のイメージには似合わない日だった。
東海地方は梅雨の入りは来週くらいだろうか。
雨の中、語ることもなく自然に立って咲いている杜若の情趣は日本的なもの。
紫色の控えめの花はヨーロッパのアイリスとは違った世界。

沖縄にも一寸合わない気がする
杜若の自生地南限は広島県辺だそうだ。

沖縄から帰ると中部国際空港も沖縄に負けない夏の日盛りだった。
元気になったところでまた頑張らなければ...




(2)日記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月29日(木) 記事No.2830


朝から晴れ。
昨日の成果がなければ、今日は追い込まれて動かなければならなかったが、気持ちを楽に動けたのは良かった。

昨夜の夜が重かったので朝食抜きにして、ホテルでデータを整理。
9:30に出発、徒歩で久米の福州園に向かった。
目的は月桃の花の情報を集めていた時、ある人の旅行記に福州園で見た月桃の花の写真があったためだ。

clip_image002

歩くと暑いので、木陰がある歩道は嬉しい。

clip_image004
那覇市の経営なので、入園無料。

clip_image006
中に入ると、池の周りの遊歩道を歩いて、花や緑、建物、景観を楽しむことが出来る。

乾いた印象のある沖縄には珍しく、周囲の喧騒とは区切られた静けさの中で、池の周りをのんびり歩くことが出来る。

福州園は那覇市の施設で、姉妹都市の福州市都の友好を記念して造られたものだそうで、本格的な中国式庭園であった。
残念ながら月桃の花とは出会えなかったが、本土の花も含めて沢山の花が咲き、静かな空気が流れる快いところだった。 那覇で時間が余ったら訪問する価値のある場所だ。

10:30
に園を出て、次はまぐろ探索に向かう。
県鳥駅からゆいレールで赤嶺駅へ、歩いて5分程に
魚屋直営食堂魚まるがある。
ここで朝食、昼食兼用のマグロ丼を食べるのが目的。

clip_image008
11:00
開店と同時に入店、ランチ限定メニューの県産生マグロ使用のマグロ丼500円を酢飯に変更して550
円注文。

clip_image010

マグロは、柔らかい食感のアッサリとした味わいのマグロだ。色も昨日の海鮮まぐろ屋どんのそれに比べると淡い赤だ。
訊いてみるとこのマグロはキハダマグロだそうだ。


腹ごしらえが出来たところで、次はまた月桃の花の探索に向かう。
目的地は末吉公園。初めて行く公園だが、首里に近く山深いところらしいので月桃の自生が多いのではないかとの期待だ。


ゆいレールで赤嶺駅から市立病院前まで移動。
駅前左側の急階段を降り、安謝川に沿って上がると左側に遊園地のようなものが見えた。
そこが末吉公園だった。

clip_image012

遊園地から上に上がると、月桃の花が見つかった。
clip_image014

上に行けば、沢山の月桃が自生してると期待して、登り始めたが、結果は全く違っていた。
上に上がるにつれて、道は細くなり、周囲の樹木は高くなり、ジャングルの様相になる。加えて蚊のようなものに刺されたところが痒くなる。
見通しも利かず、人も全く居ないので迷うと危ないので、末吉宮まで辿り着かないまま撤退することにした。
月桃は最初に見た以外は見つけられなかった。

安謝川まで降り橋があるので渡り、対岸の道を登って行くと全く違った風景になった。
こちらは整備された公園になっている。明るい舗道を行けば散歩を楽しめるようになっており、人の姿も見かける。
最上部まで到着すると末吉公園の表示があった。

clip_image016

後になって判ったことだが、安謝川の上流に向かって右側が一般的な公園で左の山側は神宮や墓のある霊域で手付かずの山のようだ。夏に行くところではなかった。

帰りは儀保駅からゆいレールに乗り戻る。
途中、コンビニで補水用に2Lの水を買って帰り、冷蔵庫で冷やしておく。


夕方からは、マグロの探索。
店は「お魚ちゃん」、三原にあるまぐろ専門の居酒屋。
店主がその日釣ってきたマグロをその場で捌いて出してくれる店。
今日釣りに出るという情報を得たので、予約しておいた。

ゆいレール安里駅で降り、栄町を抜け15分程歩く、りゅうぼう三原店の直ぐ近くに店はあり迷うことはなかった。

clip_image018

店に入ると、丁度店主が釣りから帰ってきたところだった。

数時間前まで泳いでいたマグロを目の前で刺身にして出してくれた。
clip_image020
昼食べたマグロとは、食感がまるで違う。
プリプリ、モチモチ。

店主からマグロ釣りの話を聞きながら、この店ならではの珍しい肴をいただいた。3月に行った同じような趣向の店とは大違いだった。
この店ならではの体験ができ、面白い宴だった。
詳しいことは、別記事にしよう。


安里駅からゆいレールで帰る。
clip_image022

県庁前に着いたのが19:50、まだ閉店に間に合うのでお姐え様に報告旁、昨日聞いたメジマグロの漬けを求めて海鮮まぐろ屋どんに行った。

clip_image024
昼とは違って、夜は居酒屋モード。
沖縄の近海の生の本マグロに拘るお姐え様の話は面白い。
閉店の9時まで話に興じて、快く酔ってホテルに帰った。

昨日に続いて、今日も手応えのある充実した一日だった。



   沖縄旅行記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月29日(木) 記事No.2831

2014/5/29 () 旧暦: 51 祝日・節気: 日出: 427 日没: 1849 月出: 449 月没: 1907 月齢: 0.35 干支:庚子 六曜:大安 九星:四緑木星

今日の季語:サングラス


「ホテルモントレ沖縄スパ&リゾート「タイガービーチ(Tiger Beach)」」

http://youtu.be/KQPj1q3qg3g


『サングラス(Sunglasses)とは、日差しや強い照明で眼を焼かれるのを防ぐために着用する保護眼鏡のこと。眩しさや紫外線などを低減するために着用する。白人は、日光から健康被害を受けやすいため、瞳を日光から守るという健康上の理由でよく使う。オゾンホールの影響で紫外線が強いオーストラリアやニュージーランドなどでは児童がかける事も珍しくない。

なお、日本では家庭用品品質表示法の適用対象とされており雑貨工業品品質表示規程に定めがある[1]
...
サングラスにまつわる逸話
   
各国の政治家の報道写真・映像において、その人物に「独裁者」といったネガティブなイメージを加えて伝えられる場合、サングラス姿である場合が多い。例:朴正煕、ピノチェト、パーレビ、サッダーム・フセイン、金正日等。またヤルゼルスキがサングラスを着用していたのは視覚障害のためであったが、1981年に戒厳令を敷いた際にはサングラス姿の写真・映像が同様の意図で用いられた。
   
セキュリティポリスやシークレットサービスなどの警護官は、警護対象者が浴びるマスコミのカメラによるフラッシュや日光によって目を眩ませられないようにするために、しばしば着用する。なお、シークレットサービスといえば「スーツにサングラス」のイメージが一般的だが、シークレットサービスによる公式のFAQでは、いつもサングラスを掛けているわけではない、との説明がなされている。
   
野球選手が屋外球場のデーゲームの守備時に太陽の眩しさで捕球に支障を来さないように着用することも多い。こちらはアイウェアとも呼ばれる。スポーツモデルなので非常に軽い上、激しい動きをしても落ちにくいようになっている。
   
公の場で常にサングラス姿の著名人も多い。有名なところではタモリ、浜田省吾、鈴木雅之、井上陽水、桜井賢(THE ALFEE)、みうらじゅん、スガシカオ、ATSUSHIEXILE)、黒田俊介(コブクロ)、m-floなどが挙げられる。彼らの場合、ファッションではなく、ある種のキャラクター・アイテムとして着用していると言える。』(Wikipedia



サングラスの俳句:

・サングラスクレオパトラの鼻が欲し  島本知子

・サングラスかけても君の眩しかり  萩尾亜矢子

・サングラスかけて心をかくしけり  内美保子

・サングラスとりて眼にもの言はせけり  足利徹

・サングラスの男にもある拍子抜け  高橋道子


沖縄の夏のビーチではサングラスが欲しくなる。
眩しすぎるのだ。

欧米人がサングラスを掛けるのは、青い目を代表に瞳の色が薄く、光を通しやすいためだ。紫外線を受けすぎると白内障になるリスクが高まる。
欧米人がサングラスを買える人が多いのには科学的な根拠がある。
一方、日本人は茶色の瞳であり、サングラスが内蔵されているようなもの。
それでもサングラスを掛けるのは、ファッションや伊達メガネであり、健康より心理的なものだ。

俳人たちも、其処にポイントを置き詠んでいる。
サングラスをかければ、自分の視線を読まれなくなる。
だから、サングラスをかければ、思いのままかというとそうは行かないようだ。

好きな人はサングラスをしても見つめられない。
目に語らせようとすれば、サングラスは邪魔になる。

伊達メガネを外せは、女性から拍子抜けと見られる確率は高い。
おいそれとは外せなくなる。



(2)日記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月28日(水) 記事No.2832


今日は素晴らしい日だった。

昨日までとはガラリと変わったのは、お天気だけではなくてテーマの達成状況もだった。
お天気も昨日までは晴れ間こそあったが、雲と雨が支配的だった。今日は、朝こそ曇っていたがその後は晴れて夏のような太陽が輝いた。
昨夜レンタカーは返してしまったので、歩いて移動する今日、天気が良かったのは運が良かった。

テーマの方も、手応えのあった日で、月桃の花も沖縄美ら海まぐろも両方一遍に来た。
午前中の波之上方面は、駄目だったが、首里城は期待通り月桃の花が盛んに咲いていた。
沖縄美ら海まぐろも、意外な形で出会うことが出来た。

夜の、栄町も良かったし、今日は充実した一日だった。


朝食をお気に入りの三笠でとるためにホテルを出る。
clip_image002
朝の国際通りは、人も車も少なく静かな地方都市の感じだ。

clip_image004
天気も、まだ目が覚めていないようで、曇っている。

久茂地の交差点近くにあるまぐろの立て看板のある店に行く、若い人が出入りしているので、開店しているのかと思った。
ガラス越しに中を覗くと、若い男がカウンターに新聞を広げている。
ドアを開けてカウンターの中にいる若い女性に、開店していますかと聞くと、今はcaféのみでまぐろは11時からとのこと。

ならばと三笠へ向かう。
clip_image006
三笠で朝食。
朝からすきやきだが、今日は一日足を動かすから、良いだろう。

食事を済ませ、波之上方面に向かって歩く。
足の向くまま気の向くまま歩いていく。
clip_image008
上山中学の裏通りを歩いていると、街案内の銘盤が目に入った。

clip_image010
米国民政府跡跡だった。

琉球列島米国民政府については、いかのWiki記事を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%88%97%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C

その沿革は、
   
194541日、沖縄戦でアメリカ軍が沖縄本島に上陸した日と同日に、琉球列島米国軍政府として設立された。
   
194671日、軍政府の権限が海軍から陸軍へ委譲される。
   
19501215日、沖縄の長期的統治のために琉球列島米国民政府となる。
   
195765日、米国民政府の長が、高等弁務官となる。
   
1972514日、沖縄の本土復帰の前日に閉庁した。

clip_image011

銘盤によれば、アメリカは、沖縄本島上陸と同時に、読谷村に軍政府を設立した。
その後、具志川、玉城村と移転した。

1946
4月に設立された沖縄民政府は、軍政府の移転とともに佐敷村に移転した。
1949
7月には、この地にあった上山国民学校に移転した。
195012月に軍政府が廃止され、民政府が沖縄統治の中心となった。
1953
年に現在の沖縄県庁の場所に、琉球政府ビルが建てられ移転するまで、この場所が行政の中心であったと書かれている。

歩いて行くと、天尊廟に出た。
clip_image013
この中には、天妃宮、孔子廟、明倫堂があり、昔はこの辺りが学問の中心地だった事がわかる。

周辺には幾つか見処がある。

小桜の塔は、沖縄戦戦没学童慰霊碑だ。
隣接して対馬丸記念館が設置されている。
終戦の前年1944822日に、米軍潜水艦に撃沈された疎開船対馬丸に乗っていた1484名が亡くなった。
米軍は子どもたちが乗った船だと知らなかったのだろうか。

有名な波之上宮も近いので歩く。
clip_image015
中国か台湾からの観光客が一杯で、賑やかだ。


境内には昭和天皇の御製の碑が建てられていた。
clip_image017
勤めを常に果たされていた昭和天皇の気持ちが真っ直ぐに伝わる御製だ。


波之上宮から福州園に向かって歩いていると方角を間違えたらしく、辻の風俗街に迷い込んでいた。
早速、ポン引きのオジサンから声を掛けられた。
歩いている目的が違うので、手を振って通りすぎようとすると
“どこに行くの”と言う。
“福州園に向かっている”と言うと、何をしてるといった顔をして道を教えてくれた。
途中の交番でもう一度きくように念を押された。
沖縄ではポン引きまでも親切だ。

その後も若いポン引きに声を掛けられた。
時間は昼の11時半、辻は今でもバリバリの風俗の街だ。


途中、言われた通り交番でもう一度を教えてもらい、福州園に到着すると、今日は休館日。

道の反対側に松山公園があったので中に入って見た。
普通の公園だった。
アメリカの若者たち男女4人組以外は誰も居ない。

clip_image019
燃えているのは鳳凰木ばかりだ。



   沖縄旅行記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月28日(水) 記事No.2833


月桃の花を求めて、首里城に向かった。

ゆいレール首里城駅を降り、上の毛から城壁ルートで首里城内に入る。
clip_image002

県立芸大前を通るより城壁ルートの方が、景色が良い。
clip_image004

天気が良いと兎に角暑い。
clip_image006
瑞泉門前の龍樋の透明な水を見て涼しくなったところで、正殿から西のアザナに向かう。

月桃の花が期待通り咲いているか不安だったが、実際は期待以上だった。
clip_image008
思う存分写真も動画も撮ることが出来た。
これは改めて別記事にしよう。

舞への誘いの開演時間が近づいたので下之御庭の会場に行き、最前列の椅子に座った。

clip_image010

clip_image012

舞への誘いが終わってから、再び京の内に戻り、西のアザナからの景観と月桃の花を楽しんだ。
clip_image014

clip_image016

首里城の月桃の花は期待通りで、旅のテーマの一つを達成することが出来た。
特に、花から自然に滴る月桃の水が観察できたのは良かった。

良い結果に満足して、芸大前の道を通り市内に戻る。
県庁前駅を降りたのは15:40を過ぎており遅い昼食だが、朝営業していなかったまぐろの店に行ってみることにした。

clip_image018
店の前に立つと、OPENの表示、しかも15:0018:00はワンコインサービスとなっていた。

clip_image020
色鮮やかな赤身の近海マグロの丼だった。
期待はずれだった3日間の後、漸く満足できる店が見つかった。

以前から久茂地の交差点を通る度にマグロの看板は気になっていたが、観光客目当ての店だろうと思って入らなかったのだが、面白い店だった。
ねじり鉢巻のお姉さまが威勢良いこの店「海鮮まぐろ屋どん」については、別記事を書くことにする。


ホテルに17:00に着き、夜の計画まで一休み。

18:20
に出て、夜の栄町に向かう。
目的はルフュージュだが、開店の19:00まで栄町周辺を散歩する。

栄町には面白そうな店が沢山出来ている。

clip_image022
栄町ボトルネック、あぶさん、べんり屋、黒ひげなど

19:00
の開店時間が近づいたのでルフュージュに行く。
店はもう開いており、お客で満席だった。
予約済みと話すとカウンターに案内された。
clip_image024

聞くと4月から3人体制になり強化されたので、休日無しで営業時間も17:30~に変更になっているとの事だった。
マスターも今日は休みとのことで合うことが出来なかった。
泡盛と料理を楽しんでから店を出て、最後に田舎そば農連市場店に向かう。

店に着いたのは20:30
相変わらず店前にはタクシーが止まっている。
期待通り、今宵の担当は上品なお姉さまだった。
clip_image026
軟骨ソーキそばを食べた。
相変わらず丁寧な造りのそばで、変わらない仕事にホッとする。


今日は、素晴らしい出来の日だった。
今まで3日間の不調が嘘のように上手く行った。
2
つのテーマが両手に花だったので、明日からは気楽に動くことが出来る。

こんな日もやってくるから嬉しい。



   沖縄旅行記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月28日(水) 記事No.2834


海鮮まぐろ屋どんの前に人がいたので寄ってみたが、朝はcaféのみで、まぐろは11:00からとの事だった。
ならばということで、三笠に向かった。

三笠は、年中無休で24時間営業という客からすれば、駆け込み寺のような頼りになる店だ。

clip_image002
客層は、地元の人が中心だ。

<メニュー>
メニューは多くの食堂のように、数えきれないほど多くはなく、食堂にしては絞り込んでいる。

clip_image004
この店で一番好きなのは、スキヤキだ。
メニューを見ると、スキヤキは650円に値上がりしている。他のメニューも値上がりしているが50円が殆どなのに、スキヤキだけ100UPになっている。
絶対水準は高くはないのでやむを得ないが、狙い撃ちされているようで気になる。

clip_image006

頼んだのは矢張りスキヤキ。
clip_image008

本土のスキヤキと違うのは、レタスが入っていたり、糸こんにゃくのように見えるが、マロニーだったりする。

clip_image010
本土の甘醤油の濃い味ではなく、薄めの優しい味。
味からすると牛肉と野菜の煮物といったほうが、本土の人には解りやすいかもしれない。

clip_image012

ご飯は、やや多目。
大盛りにすると+100円。


この店は、いちぎん食堂と並んで地元の人から愛されている食堂であることは、良く理解できる。

4,5
名のおばちゃんたちが忙しく働いているので、ゆっくり話すことは難しい。
カウンター席があるので常連は、其処に座って話をしているから、出来なくはない。だが、旅行者には少しハードルが高い。
おばちゃんとゆっくり話がしたい人は、おばちゃんが一人でやっているような店に行ったほうが良いだろう。


【データ】
    
三笠 松山店 (みかさ)
       098-868-7469
    那覇市松山1-3-17 伊波ビル 1F
    営業時間 24時間営業
     朝食営業、ランチ営業、
     日曜営業
    定休日 : 年中無休(年始、旧盆の3日目とその翌日は休み)
    完全禁煙
    駐車場: 無
    ホームページ:

         http://www9.plala.or.jp/mikasa1/




   沖縄お店 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月28日(水) 記事No.2835


久米を歩いていると至聖廟を通りかかった。
観光バスが停まり、中国人らしい団体客が歩いている。

clip_image002

clip_image004
銘板を見ると天尊廟他の名前が書かれている。
ここは入った記憶が無いので、初めてのはずだ。

clip_image006


clip_image008


clip_image010


clip_image012

天尊廟
clip_image014

左右に龍王殿と関帝廟が祀られている。
clip_image016


clip_image018


clip_image020


clip_image022

久米地区は、中国人の帰化人が住んだ地区なので、中国との縁が強いところであると実感できる。


『至聖廟(しせいびょう)は、沖縄県那覇市にある日本最南端の孔子廟である。孔子の他に四配(顔子、子思(孔伋)、曾子、孟子)の像が祀られている。

17
世紀初頭より久米三十六姓の人々によって儒教の祭典が行われていたが、尚貞王の時の1676年になって、那覇泉崎の地に建立された。以来、教育機関の明倫堂とともに戦前までその威容を誇っていた。

しかし1945年の沖縄戦で焼失し、しかも軍道1号線(現在の国道58号)の拡張工事により敷地が削られたことで、元の地での再建が不可能になった。

1975
年になり、波上宮に程近い天尊廟跡地に、天尊廟とともに再建された。元の地には蒋介石から贈られた孔子像が置かれている。

施設
 
大成殿 - 至聖廟(孔子廟)の本殿。孔子と、高弟の顔子、曾子、子思子、孟子を祀る。
   
明倫堂
   
天尊廟
   
天妃宮
   
程順則頌徳碑
   
蔡温頌徳碑
   
中山孔子廟建立碑
   
管理事務所
   
至聖門』(Wikipedia




   沖縄の見処 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2014年05月28日(水) 記事No.2836


少し行くと、旭ヶ岡公園に出る。
旭ヶ丘公園も初めてだ。

clip_image001


clip_image003
終戦末期学童疎開船対馬丸が米潜水艦に撃沈されたことは、良く知られている。

clip_image005


clip_image007
学童1484人の学童が犠牲になった対馬丸攻撃は、戦艦ではないにもかかわらず、魚雷攻撃をした米軍は狂気であったといえる、戦争犯罪として断罪されるべきだ。

clip_image009
隣には戦没新聞人の慰霊碑がある。
clip_image011

1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた
砲煙弾雨の下で新聞人たちは二か月にわたって新聞の発行を続けてた
これは新聞史上例のないことである
その任務果たして戦死した14人の霊はここに眠っている」

戦死した新聞人についての記事がある。

『沖縄戦のスクープ

夜陰の戦い、記者2人壮烈ルポ

米軍の艦艇は、照明弾を打ち上げている。沖縄本島南端の摩文仁海岸で、毎日新聞の野村勇三・那覇支局長は午後8時、支局員の下瀬豊記者も午後10時、ふんどし姿でそっと海に入った。日本軍が壊滅寸前の1945(昭和20)年618日の夜だった。

陸軍司令部がある首里に米軍が迫る51819日、2日続けて毎日新聞の1面に「野村、下瀬両報道班員(本社特派員)」の名で大きな記事が掲載された。1516日現地発の記事には「敵首里郊外突入 悪条件下 わが精鋭勇戦」「壮烈 雨中斬込み続行 敵損五万、尚強引の攻勢」(大阪本社発行紙面から)の大見出しが躍っていた。「安里」「牧志」の地名や「一丘一陣を争う」の記述があり、那覇・首里周辺での激戦を描いていた。特に14日夜から翌未明にかけて、大雨の中、斬り込み隊の壮烈な戦いをルポし、「敵は無数の照明弾を打ち上げ、那覇市一帯の漆黒の闇は一変、白昼の如くこうこうとして生々しい。

このころ、米軍の激しい銃爆撃で、内地の他紙は首里から那覇の無線局の壕へ通うのを断念していた。紙面も、大本営発表や「南方某基地○×記者」などの情報で作っていた。だが、野村支局長らは命がけで往復し、原稿を送り続けたのだった。

野村支局長は22日、司令部に呼び出された。大本営から台湾軍経由で「毎日賞」が届けられており、牛島満司令官から伝達された。危険を顧みず取材し、原稿を送り続けた2人に、本社が軍に頼んで届けたのだ。

だが、陸軍は28日、首里を放棄、野村支局長らも司令部とともに摩文仁の洞窟に移った。615日には、牛島司令官は2人に内地に帰り、沖縄戦の実相を国民に伝えるように命じた。知念半島の突端に小舟が隠してあり、2人は別々に泳いで行き、合流して南西諸島を北上することになった。出発前、島田叡・沖縄県知事は純白の絹の生地を贈り、野村支局長は2つに裂いて下瀬記者とふんどしにした。

野村支局長は銃撃で負傷し翌朝、米軍に収容された。しかし、下瀬記者の行方は分からず、戦死と認定された。

野村、下瀬両記者は軍の検閲下で、他紙と同様に戦意高揚を図る記事を書き続けたのは否めない。しかし、下瀬記者は本島中部の最前線で、黒髪を切って弾薬を運ぶ若い女子挺身隊員3人が爆撃で血に染まった姿を報道した(53日付)。また、2人は20日間も従軍し兵士と同じたこつぼに入り、戦車を肉弾攻撃する様子も書いた(430日付)。日本兵の死ばかりか、沖縄県民も巻き添えにする悲惨な姿には、悲しみさえにじむ。これらの実態は戦後、国民の前に詳しく明らかにされたが、沖縄戦の最中に伝えたスクープと言ってもよかった。

命をも惜しまない2人の記者魂は、いつまでも語り継がれる。下瀬記者の名は、那覇市の「戦没新聞人の碑」に刻まれている。(20074月号から。野村支局長と下瀬記者の2人が書いた壮絶な日米戦のルポ=1945年5月19日付大阪本社発行紙面) 』
(新聞記者になりたい人のための入門講座
http://blog.goo.ne.jp/kazupiro2011/e/a846db2d42ece03b22bcb11f6a20aa25


60
年経つと世代が変わる。
世代が変わると、記憶は消滅してしまう。
語り伝えるためには、記録や記念碑で残し伝えていくことが必要だ。



   沖縄の見処 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 |