FC2ブログ

  • 2010年01月 の記事一覧

2010年01月31日(日) 記事No.5758


旅行最終日の4日目の朝、目覚めると6時だった。
カーテンをを少し開け外を覗くと、まだ暗い。
沖縄の夜明けは遅い。
大型バスがライトを受けながら、ホテルへの導入路を降りてくる。
ライトに照らされた部分の路面が濡れて光っている。
最終日も雨か。
予定を変えなければならないかもしれないと思いながら、ベッドに戻った。



日航那覇 グランドキャッスルの朝食はブッフェだ。
洋食が中心だが、和食、沖縄のものも少しある。
内容は平均的でオクマの内容とは差がある。値段もオクマの方が高いので、値段相応だ。


印象に残ったものを2つ。


 
自家製のパン。
真っ黒なテニスボールのように見える。イカスミのパン。
コクのある味だがクセも感じる。


 
ゴーヤーの漬物だが苦味は表面には出てこない。
まず甘味があり,次にコクのある旨みがある。中盤から次第に辛くなる。苦味がある所為か後口がサッパリしている。
炊きたてごはんに乗せて海苔で巻いて食べると美味しい。


売店で購入できると買いて有ったので行ってみたが、小さな紙パックのおみやげが1050円もする。美味しいが買わなかった。


チェックアウトの12時までホテルにとどまるか、予定通り玉陵に行くか迷っていたが、食事の時、窓の外を眺めていると、雨が少し弱くなり、空も心なし明るくなったような気がした。予定通り出掛けることとした。


2日目の夜、徒歩で歩いた道を走り、首里高校の先の交差点を右折,首里城の大駐車場に入る。
 もう駐車場は満杯でキーを付けたまま出てくださいといわれる。係員が後で車を適宜入れ替えるらしい。


 
駐車場を出て、2日目の夜真っ暗でよく見えなかった金城の石畳の入り口真珠道(まだまみち)の前を通り、左折すると右側が首里高校、左側が玉陵(たまうどん)である。


 



以前入り口だったところを通りすぎると、広い参道が出来ていた。
雨の中、係員が石畳の清掃を行っていた。


 
玉陵は,世界遺産の中に入ったので、整備が進められている。


入り口には拝観料の窓口と資料館の建物がある。
資料館には琉球王朝尚氏の歴史と玉陵の詳細なデータが展示されている。


 
石灰岩の石組は長い年月を経て黒く変色している。


 
 
真ん中の墓室。
王の遺骸は5年ほど中央の墓室に置かれ、白骨化するのを待って洗骨された後,左の墓室に安置された。


『玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。
 墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442?。 沖縄戦で大きな被害を受けましたが、3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。』(那覇市HP)


 
真ん中の墓室の右側の扉は新しく改修されたようだった。


雨が降り止まないので、泡盛工場、紅型染の見学は取りやめ、首里城に戻ることとした。


 
『園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)


『園比屋武御嶽石門は守礼門と首里城の正門にあたる歓会門の中間にあり、尚真・しょうしん(1477~1526年)によって1519年に創建されたことがわかっています。築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全を祈願した拝所です。また琉球王府の最高位の神女の聞得大君(きこえおおぎみ)が斎場御嶽で即位式をおこなう際にもここで祈願したと伝えられています。沖縄戦で大破しましたが見事に復元されています。今も祈願に訪れる人が後を絶たちません。首里城正殿へ行く途中にあります。』


首里城に来たときは毎回見ていた門だが、世界遺産に入るような門とは知らなかった。



首里城では花祭りが行われていて、葉なの植栽が多かった。


 
歓会門を少し登ったところ右側にある龍樋(りゅうひ)では数人に人たちが雨の中、シートを敷き、線香をたいて、宗教的な行事を行っていた。


 


『「龍樋(りゅうひ)」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。』(首里城HP)


 
広福門(こうふくもん)前の庭からの眺望は首里城で最もお気に入りの場所だ。


 
以前に比べると、沖縄県立芸術大学、沖縄県立博物館の多きな建物が立ち視界が悪くなっている。


 
広福門前の花の植え込みが、雨にぬれて美しい。


 



 
雨の中多くの観光客が傘をさし、漏刻門に向かって登ってくる。



 
瑞泉門(ずいせんもん)の瑞泉とは「立派な、めでたい泉」という意味だそうで、泡盛の瑞泉もそれに因んでいるものだろう。


雨の中、門の両脇には一対の石獅子が、魔除けの仕事を果たすべく、那覇に市街を見渡していた。


 
観光客は次々に正殿に向かい登ってゆく。
写真は人が少ない時に撮っており、実際は途切れること無く連なっている。


首里城の駐車場を出て、ナビの教えてくれたトンネルを抜けて裏側の道を市内に向け降りているとき、雨脚は猛烈になった。スコールのようである。車に乗っていてからのスコールで幸運だった。


次の目的地は那覇新副都心、おもろまちである。
以前の天久米軍住宅地が一変し、ビルが立ち並ぶ新都心になった。
前回その変貌振りに驚かされたが、今回は沖縄のイメージを今の姿にアップデートするべく、おもろまちを歩いてみよう。

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月31日(日) 記事No.5759

 


 
レンタカーをDFSの返脚場で返脚。今回は時間が早いので、まだ混雑はしていなかった。


 
DFSは高級ブランド品が免税で購入できる場所だ。


 



ファッション、高級化粧品の店が数多く並んでいる。


DFSを出ておもろまちを散歩してみる。
朝の雨が嘘のように晴れてしまった。
南国特有の変わりやすい天気。
暖かい風が吹き抜け、風に流された雲が運ばれて行くと青空が見える。
太陽が眩しい光をおもろまちに降り注いでいる。


  



副都心おもろまちにはゆいレールが走っている。


 


 
DFSの横の通りを58号線方向に歩く。
陽射しが強くなり木の陰が路面にくっきりと写っている。
こうなると沖縄の太陽は熱く感じられる。


 
空を見上げると空の青さが眩しい。冬の空の青さではなく濃い青さだ。



 
先程車で通り過ぎた時、気になった建物。
交差点を渡り、シャッターが下ろされた入口の前に行くと日本銀行那覇支店だった。赤い屋根が沖縄らしい洒落た日銀だ。


 
当初おもろまちから県庁までゆいレールで移動する予定だったが、あまりに天気がよくなったので、陽射しは少し気になるが、歩いていくことにした。
 シネコンのビルの前でガイドマップを見ながら国際通りへの道を確認していると、若い女性が近寄ってきて、"何かお困りですか"聞いてくれる。
 "国際通りまで歩きたいんですが,日銀前の交差点から行けますか"と尋ねると、
"シネコンの先の交差点を左折して、広い道を降りて行けば国際通りの方に行きます"と教えてくれた。
 沖縄の人たちはみんな親切だ。沖縄では当たり前かも知れないが、ヤマトンチュには当たり前でなく,嬉しい。ありがとう。


 
空は青いが、雲は夏のムクムクした肉感のある雲ではない。


 



南国の海風が吹き抜け青く空が開けたあかるい町並みが開放感に満ちている。


新都心には役所も多い。
沖縄開発金融公庫、沖縄総合庁舎、那覇ハローワークなど多きなビルが並んで建てられている。
 多きなビルをそれぞれ建てるほど仕事があるのだろうか、一つのビルで間に合うのではないか、結局天下りのためのビルなのだろうと横目で見ながら通り過ぎた。


 
下り坂の途中に椰子の木が植栽された建物があった。
今はどこの系列か知らないがザ・ナハテラスだった。


 
空を振り仰ぐと、今日の天気予報は全く外れ、晴れ・晴れだった。

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月31日(日) 記事No.5760


坂を下り終わると久茂地川に沿った崇元寺通りにでた。
ここまで来ればもう土地勘はある。


 
崇元寺の石門は、以前は閉じられていた記憶があるが、今は通り抜けが出来、公園のようになっている。


 


久茂地川に沿ってゆいレールが走っている。
久茂地川の橋を渡ると、以前は無かった広い道路が、ゆいレールに沿って走っていた。この道は崇元寺通りより広い。


国際通り方向に小道を何度も曲がりながら歩いていくと、古本屋があった。以前何度も行った小さな古本屋だった。
 ロマン書房である。時の経過とともに無くなってしまった店が多い中、ロマン書房はより大きく商売繁盛の様子だった。
 安里の交差点近くにあった古本屋は無くなってしまったが、ロマン書房は健在、ご同慶の至りだ。


 
狭い道を歩いていくと石積みの構築物が見えた。


 
何かと思ったら埋蔵文化財の発掘調査だった。


交際通りに向けて歩いていくと道路に磁器製の道標が埋め込まれている。
 
アスファルトにペンキで描いただけのものより、経年変化に強く、綺麗で見やすい。本土も真似してこのような道路標識にしたらどうだろうか。


 
国際通りにでると、車の姿が無かった。
日曜日は歩行者天国になるようだ。


歩き疲れたし,お腹も空いたし、昼時なので食事処を探す。
日曜日は国際通りの裏の通りの店は開いていない。
「ゆうなんぎい」も残念ながら休み。


どこでも良いから陽射しを避けて座ろうと、国際通りを歩いていくと。
「いちまいる」と言う店が目に入った。



細い地下への階段を降りて行くと、下は意外に広い空間だった。


  


喉が乾いたので、オリオンビールの生で渇きをいやす。
レンタカーはもう返してしまったので飲むのはOKだ。
 


壁にうちなー言葉が掲示されていた。
 


 
豆腐チャンプルー。
観光客向けの店であり、どうかなと思ったが、思ったより美味しかった。
 これで1コイン500円なら文句は言えない。


暫く休んで喉の渇きも脚の疲れも回復したので、最後の仕事、おみやげの買い物に出掛ける。


おみやげは持って回るには重い。
買うのは最後が鉄則だ。


お菓子ちんすうこうは御菓子御殿、塩製品は塩屋と当たりはつけてある。
 予定の個数を買うとちんすうこうずっしりと重い。塩は軽いから良かった。


買いものが終り、することが無くなったので、塩屋の奥の雪塩ソフトクリームを食べた。


 
甘さを引き立て、甘さをサッパリとさせるのはぜんざいの塩と同じ原理だ。ソフトクリームの塩もなかなか良い感じ。


 
テーブルの上に5種類の塩が置いてある。
お好みでソフトクリームに掛けて食べるものらしい。
好奇心の赴くまま、全て試みた。
一番良かったのは左端のとうがらし塩。食べ終わった後、甘さによって柔らかくなった辛味がほんわりとやってくるのが新鮮だった。
 シークワーサー、ゆずもそれぞれの香りが良かった。
ハイビスカスの塩は色は良いが、味はこれと言った個性はない。


  



歩行者天国も、日曜だが人は少ない。
観光客しかいないからだろう。



 
ゆいレール県庁前駅のある久茂地パレットに向かう。
少し早いが、空港に向かう。


 
県庁前の光景も変わってしまっている。


 
ゆいレール県庁前駅。
駅から眺める久茂地川周辺。
以前の建物も皆無ではないが、殆どが建て替えられ変わってしまっている。


 





 
ゆいレール空港方面は意外に混んでいた。
空港へ向かう観光客より地元の人の方が多かった。
渋滞する那覇市内の移動は車より便利なのだろう。


 



無事に空港に到着。
4日間の旅行も終わりに近づいた。


手荷物の持ち込みチェックは厳しくなかった。バッグの縦横高さの制限はチェックされなかったし,バッグの他におみやげの大きな袋を持ち込んだが問題は無かった。


帰りの飛行機は偏西風の関係からか速い。2時間少しで中部国際空港に無事着陸。
 警戒した寒さはそれ程では無かったが、雨だった。


夏の沖縄は良いが、冬の沖縄も良い。
天気は雨に日が多いが、予報は雨でも今日のように晴れることもある海洋性気候だ。
 夏の暑さの中動くのは大変だが、冬の沖縄は本土にはない緑と花があり、暖かく湿った空気がある。


前回はセンチメンタルジャーニーが目的だったが、今回は今の沖縄を歩くことが出来た。沖縄のイメージがアップデートされた。
 今度は北谷・嘉手納の地元の人達が行く遊びどころと中北部のリゾートで時間を費やすことにしよう。

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月31日(日) 記事No.5761

2010/1/31 (日) 旧暦: 12月17日    日出: 6時42分  日没: 17時07分  月出: 18時28分  月没: 7時01分  月齢: 15.83  辛巳 (しんし,かのとみ)  六曜: 仏滅  九星: 九紫火星  選日:


今日の季語: 寒木瓜(かんぼけ)


 



(ナベショーのシニアーライフ より転載)


『・薔薇(ばら)科。                         
・学名  Chaenomeles speciosa               
          Chaenomeles : ボケ属             
          speciosa    : 美しい、華やかな   
  Chaenomeles(カエノメレス)は ギリシャ語の
  「chaino(開ける)+ melon(リンゴ)」が 
  語源で、"裂けたリンゴ"の意味。         
学名 C へ
 
 
・開花時期は、11/25頃~  4/15頃。 
  11月頃から咲き出す花は                 
  春に開花するものと区別するために         
  「寒木瓜(かんぼけ)」と呼ばれることがある。
 
・中国原産。                               
・実が瓜のような形であるところから「木瓜」。
  「木瓜」を「もっけ」と呼んでいたのが     
  次第に「もけ」→「ぼけ」になった。       
  (「ぼっくわ」→「ぼけ」の説もある)     
 
・花の色は赤、白、ピンクなど。             
・枝にトゲがある場合とない場合がある。      』
(季節の花300 より転載)


 


寒木瓜の俳句:


・富士見ゆる日や寒木瓜の咲きそろふ 蓮尾あきら


・寒木瓜の蕾に色や明通寺 森田公司


・寒木瓜の吹きさらされつ色深む 久保みどり


・落日のふと寒木瓜の朱を点ず 加藤楸邨


・寒木瓜の芯に旦の自戒あり 小川双々子



 

(2)日記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月30日(土) 記事No.5762

朝、目が覚め部屋のカーテンを開けると良い天気だった。
気持ちよく飲んだ酒は後を引くことも無くスッキリと快調だ。


天気に恵まれれば、今日も予定通り世界遺産の見物と恒例の南部の戦跡参りだ。夜は、国際通りで宴。


沖縄の世界遺産は、城(グスク)は昨年勝連城を見たので全て見ている。しかし、世界遺産の指定されているものは城以外にもあるので、それらを見るのが今回の旅行の第3の柱だ。


沖縄の世界遺産は、正式には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」と呼ばれる。
 2000年(平成12年)、24回世界遺産委員会会議で一括して世界遺産登録された。
 構成は、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)である。


これらのうち最後の二つ、識名園、斎場御嶽にはまだ行ったことが無いので、今日最初に向かう先はこの2箇所だ。


首里の山を降りて、那覇市内を南へ暫く走ると、識名園が有った。昔は、王家の別荘であり自然豊かな景勝地だっはずだが、意外にも今は市街地に有った。


 


駐車場の横には、上部を横真一文字に伐られたガジュマルとおぼしき木が有った。見事に斬られているが、まだまだ生命力に満ちた姿だった。立派だ。


『識名園(俗にシチナヌウドゥンと呼ぶ)は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、1800年に尚温王冊封(さっぽう)のため訪れた正使(せいし)趙文揩、副使(ふくし)李鼎元(りていげん)を招いています。


 王家の別邸としては1677年、首里の崎山(さきやま)村(現在の首里崎山町)に御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)がつくられました。現在の首里カトリック教会がある所です。首里城の東に位置したので「東苑(とうえん)」とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので「南苑(なんえん)」とも呼ばれました。


 識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)」です。「廻遊式庭園」は、近世に日本の大名が競ってつくるようになった造園形式ですが、識名園では、「心」の字をくずした池の形(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られます。


 識名園はかつて、春は池の東の梅林に花が咲いてその香りが漂い、夏には中島や泉のほとりの藤、秋には池のほとりの桔梗(ききょう)が美しい花を咲かせ、「常夏(とこなつ)」の沖縄にあって、四季の移ろいも楽しめるよう、巧みな配慮がなされていました。


指定面積は41,997平方メートル(約12,726坪)で、そのうち御殿(ウドゥン)をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643平方メートル(約195坪)となっています』(那覇市HP)



入園料を払い構内に入ると、木々が生い茂り、その中を遊歩道が設けられている。


 



 歩き始めると園に来るまでの市街地の車の騒音が静められて落ち着いた雰囲気である。
 道も木々も十分手が入れられていて、木が茂りすぎて薄暗くはなく、太陽が眩しいほど光が入ってもいない。散策するのに丁度良い。6月の勝連城は灼熱の騒音地獄だったが、ここ識名園は別天地である。さすが王家の別邸である。
 真夏に来れば、この道を歩き蘇生できるかもしれない。


 



(那覇市HP)






遊歩道の傍らに沖縄の自然の中至る所に自生している里芋のような芋があった。これがターム(田芋)なのだろうかと思っていたが、自生しているものは名札は付いていない。
 ここでは名札が書かれていた。「クワズイモ」と言うらしい。


帰って調べてみると、「クワズイモ」は、タームとは違って食えず芋らしい。


『クワズイモ (Alocasia odora) は、サトイモ科アロカシア属(クワズイモ属)の常緑性多年草である。素朴な味わいのある大きな葉を持つ観葉植物としてもなじまれ、大きなものは傘にして人間も入れるほどの葉を持つ。


 形態
サトイモのような塊状ではなく、棒状に伸びる根茎があり、時に分枝しながら地表を少し這い、先端はやや立ち上がる。先端部から数枚の葉をつける。大きさにはかなりの個体差があって、草丈が人のひざほどのものから、背丈を越えるものまでいろいろ。葉は長さが60cmにもなり、全体に楕円形で、波状の鋸歯がある。基部は心形に深く切れ込むが、葉柄はわずかに盾状に着く。葉柄は60cm-1mを越え、緑色で、先端へ細くなる。


花は葉の陰に初夏から夏にでる。仏炎苞は基部は筒状で緑、先端は楕円形でそれよりやや大きく、楕円形でやや内に抱える形で立ち、緑から白を帯びる。花穂は筒部からで的色味を帯びた白。果実が熟すと仏縁苞は脱落し、果実が目立つようになる。
...


 毒性
クワズイモの名は「食わず芋」で、見た目はサトイモに似ているが、食べられないのでそう呼ばれている。シュウ酸カルシウムは皮膚の粘膜に対して刺激があり、食べるのはもちろん、切り口から出る汁にも手で触れないようにした方がいい。


ちなみに、クワズイモを誤って食べると舌がしびれて会話がうまくできない状態になったりすることから、英語では「Dumb Cane(口のきけない茎)」とも呼ばれている。日本でも誤食による中毒が北海道で2件報告されている。東京都福祉保健局の分類では、クワズイモは毒草に分類されている。


 文化面
...
沖縄県では、お盆の送り火(ウークイ)の時に線香等を玄関先で燃やす際に、クワズイモの葉の上に供え物の料理や果物、ウチカビ(紙銭)を並べてそのそばに置く。クワズイモの葉を風呂敷に見立てて先祖の霊に持っていってもらうため、という意味があるという。』(Wikipedia)


この芋は、本土では観葉植物、沖縄では仏事に使うものらしい。


 
この門が識名園の正門であるが、閉められている。


 
池のそばにある水源である育徳泉。
『育徳泉(いくとくせん)
 育徳泉は清冽な水をたたえ、池の水源の一つにもなっています。琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。また、井戸口は右手にもあります。
 井戸口の上には、泉をたたえた二つの碑が立てられています。向かって右は、1800(嘉慶5)年、尚育王の冊封正使・趙文揩(ちょうぶんかい)が題した「育徳泉碑」、向かって左の碑は、1838(道光18)年、冊封正使林鴻年(りんこうねん)が題した「甘醴延齢碑(かんれいえんれいひ)」です。もとの碑は、戦災を受けて破損したため、1880(昭和55)年に拓本をもとにして復元したものです。』(那覇市HP)



 
池の近くにある桜が花を開いていた。まだ満開手前である。


 
『御殿(ウドゥン)
 御殿は赤瓦屋根の木造建築で、往時の上流階級のみに許された格式あるつくりですが、雨端(あまはじ)などに民家風の趣を取り入れています。明治末期から大正時代のはじめごろ、増改築がなされました。
 総面積は525?(159坪)で、冊封使を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前(メー)の二番座など、15もの部屋がありました。』(那覇市HP)


  



 御殿の座敷の上がり框に腰掛けて、正面を見ると池と六角堂の視野が眼前に開ける。


 
御殿の横には梅の花が咲いていた。


 
台所。


 
『石橋
 池の中に配された島に、大小二つの石橋が架けられています。いずれも、橋の中央が高くなったアーチ橋で、中国風のデザインです。』(那覇HP)


 
『六角堂(ろっかくどう)
 池に浮かぶ島につくられた六角形のあずまやです。屋根の形や瓦を黒く色付けているところに、中国的な趣を感じさせます。島へは、一つ石(琉球石灰岩)でつくられたアーチ橋が架けられています。』(那覇市HP)


 
御殿と六角堂。


 
池の反対側から見た御殿。


 
『滝口
 あふれた池の水が、石造の懸樋(かけひ)から勢いよくよく落ちています。かつてその側には、あずまや(八角堂)があり、夏場の厳しい暑さをしのぐには絶好の場所でした。』(那覇市HP)


 
勧耕台から眺めた那覇市街。
昔、冊封正使が遠くを見晴らした時には、一面の畑が見えたのだろう。


 
識名園の散歩道を歩きながら木々に目をやっていると、冬であることを忘れる。
 緑があり水蒸気を含んだ生暖かい空気が肌に触れる。
本土では5月の頃だ。


駐車場を出て目的地の斎場御嶽へ向かったが、Naviの反応が遅く反対方向に行ってしまった。
 大きく回り込んだらその道は霊園を通り抜ける道だった。識名霊園と言うらしい。
 本土の霊園とは雰囲気が異なる、本土の霊園は石柱の墓石が並んでいるが、沖縄では無い。家のような形をした立派な石室である。家を建てるくらいの費用がかかると聞いたことがあるが、それ程では無いにしても費用がかかることは間違いない。


沖縄はまだまだ先祖様が大切にされている社会なのだ。


 

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月30日(土) 記事No.5763


世界遺産の最後は、斎場御嶽(せーふぁうたき)だ。
場所は旧知念村、今は南城市(なんじょうし)と言うそうだ。


 
駐車場に車を留め、入館料を払い中に入ると、左側に資料展示スペースがあり、その先が参道への順路となっている


参道は石畳だが整備されており、雨が降っても大丈夫だが、滑る危険はある。
 石畳の道はところどころ急坂があり、上から杖をついた若い女性が右側の手すりを伝いながら降りてくる、怪我でもしたのだろうかと思ってすれ違うと、なんと細いヒールのハイヒールを履いていた。沖縄の石畳はスニーカーが一番良く似合うのに。


左右の深い木々と岩石に囲まれた石畳を登っていくと、道が左右に別れる。
 右は三庫理(さんぐーい)への道。


 
右に大きな岩石のある場所に出た。
石の下には拝所が設けられている。



先に進むと、右側の大きな石の割れ目が見える。
有名な三角石だ。
 
石の割れ目を通り抜けると、そこは拝所になっている。


 
左に視線を向けると、木の間から海が遠く見える。
海の先に見えるのは久高島。
説明書きを見るとこの場所は、久高島の遥拝所だそうである。


『敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ(京のはな)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。 なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。


 王国時代の斎場御嶽
文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。』(Wikipedia)


久高島は沖縄文明の聖地である。
『琉球王国時代には国王が聞得大君を伴って島に渡り礼拝を行っていたが、後に斎場御嶽から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。


 文化]
琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。
久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。
久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子一人につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。
島北端のカベール岬は祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨したとも伝わる聖地である。
久高島の土地は村有地などを除いてすべて共有地であり、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている。「久高島土地憲章」により分配・管理を行っている。』(Wikipedia)



参道を戻り、分かれ道を左にたどると
寄満(ゆいんち)がある。

 
『寄満とは、王府用語で「台所」を意味しますが、貿易の盛んであった当時の琉球では、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されています。』


斎場御嶽は、沖縄文明の神話の地である久高島に連なっている。
琉球王朝の王達は久高島の神から王権の権威を認められていた。


久高島も斎場御嶽も男子禁制の場所であった。
女性が政を行った。女権社会である。
本土の神話である古事記、邪馬台国の卑弥呼もそうだが、女権社会であった。
 日本は歴史的には女権社会なのであることが理解できる。


 


次の目的地はは、エイサーのイベントをやっているのでおきなわワールド。


 
ここは、以前は玉泉洞と言っていた処だ。
大きな駐車場を備えた団体の観光客向けの観光スポットだ。


 
大輪のハイビスカスが咲いている。
色とりどりのハイビスカス。


 


 


エイサーのイベントはやっていたが、撮影禁止とやらで写真は掲載出来無い。観光スポットで撮影禁止の意味がわからない。


お土産物コーナーも試食はなく、商品を見ているとすぐ店員が寄ってきて、売り込みを掛けるのでゆっくり見ることも出来無い。
 ナゴパイナップルパークの雰囲気とは全く違う。


 
展示コーナーに、りゅうぎん紅型デザイン賞の歴代の受賞作が掲示されていたが、綺麗だった。
 鍾乳洞もハブとマングースの決闘も白蛇も興味はないので、この紅型展示とハイビスカスが一番良かった。



次の目的地は、毎回必ずお参りしている平和祈念公園と島根の塔。


 
沖縄平和記念塔の前の広い式典広場。
この広場には、懐かしい思い出が沢山ある。
其処にいるだけで思い出が走馬灯のように廻り出す。
The Windmills of My Mindが廻り出す。
そんな場所は多くない。


 
 平和の礎(いしじ)に手をあわせてお参りする。


 


 



平和の礎前の展望台から見た海は以前と変わること無く波が寄せている。


 
今回は時間が早いので、まだ団体の客が駐車場の方からガイドに引率されて歩いてくる。


 


 
昨年6月は、時間が遅く黎明之塔を探すのに苦労したが、今回は其処まで行くのは時間の余裕が無いので、次の目的地魂魄の塔へ向かうことにした。


平和祈念公園を出て旧道を走ると、直ぐ健児の塔の表示が有った。
左折して暫く走ると、駐車スペースに出た。
見ると健児の塔と黎明之塔の表示が出ている。
平和の礎側から黎明之塔に行くのは遠いが、こちらに車で来れば早く参れそうだ。次回からはそうしよう。


 
駐車場横に咲き誇っていたブーゲンビリアは見事だった。


331号線に戻り、島根の塔をめざす。
左折する場所は、以前は民家が立っていて判りにくかったが,今は整備されている。


農場の中の道を走っていくと、近くの小学校の子供達が課外活動だろうか集まっていた。
 一人の子供が横を向いて車の前に出てきた。ブレーキを掛けて止まると、先生から注意された。すると、他の2人の子どもがワザと手を振りながら出てきた。先生に注意されたいのだろう。



 
観光客は誰もいず。何時ものように静かである。


 
田部長右衛門知事の献辞にお参りする。
大理石の碑文も永年の歳月を経て表面が曇ってきている。
綺麗に磨くのも良いがこのままでも良い。
この献辞がいつまでもここに在ることを願いたい。



駐車場から出ようとすると、子どもたちは慰霊の塔の周りをマラソンをしていた。すると子どもたちを首輪をした犬が喜んで追いかけて一緒になってマラソンをしている。後ろの遠くの方で飼い主が、呼ぶと、犬は残念そうに子どもたちの方を見ながら飼い主の方に帰っていった。


子どもたちが集まっているところをスロースピードで通り抜けると、後で手を振りながら怒られるために出てきた子どもたちが笑いながら愛想よく手を振って"さようなら"と言っていた。
 お小縄の子どもたちも犬も生き生きとして生きている。


 

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月30日(土) 記事No.5764


今夜の宴は、沖縄の島唄ライブを楽しみながら沖縄料理と泡盛を楽しむ趣向。


予約した店は国際通りの県庁側に在る。ホテルからタクシーに乗り国際通りの安里側で降り、国際通りを歩くことにする。


歩き始めると、以前と雰囲気が相当違う。
まず、人通りが少ない。土曜日の夜なのに歩いているのは観光客ばかりだ。
 つぎに、通りに店の呼び込みが多い。言葉通りに袖を引いたり、手を掴んだりはしない。店に宣伝板を掲げている。クーポン券を渡そうとする。呼び込みの声を掛ける位で、実害はないが、鬱陶しい。観光客しか歩かない街になっているからだろう
 次に、国際通りに直角に交わる大きな通りが出来ていたことだ。記憶にはない大きな通りが2本あるような気がしたのは記憶間違いだろうか。
 安里側にはユイレールの駅も出来、国際通りの上を横断している。


もう無くなったかと思った眼鏡屋さんがまだ健在だったのは懐かしかった。


キョロキョロしながら歩いていると1.6kmも束の間だった。


目的の「まんじゅまい」は国際通りの1本久茂地川寄りのとおりに在る。


 
この店もネットでのクチコミで国際通り近くの島歌ライブと沖縄料理の店を調べたものだ。


店内は手前が椅子席、右奥が座敷になっている。予約しておいた通り座敷に案内してもらう。


 


メニューを見て注文をしている時に、19:00からのライブが始まった。金曜日の夜は、3回ライブが有り、チャージ料が500円かかる。


泡盛はまさひろを注文。
 
この店は、氷と水のセットは有料である。


料理は、フーチャンプルー、島らっきょう、ラフテー、ソーメンチャンプルーを注文した。


島唄は男女一人づつの演奏で男が三線と唄、女性が唄を担当。


店内は満席の状態。
島唄男がお客にどこから来たか訪ねる。
テーブル席にも座敷にも北海道の札幌からの客が来ていた。温かい沖縄を楽しみに来たと言っている。
 島唄男はもう札幌は雪祭りですねという。
相席の隣の年配の男の二人連れは大阪から来たと言っている。


席の近くの壁に三板(サンバ)が掛けられている。
 三板は3枚の板をヒモで括ってあり、これを指に挟んで、カスタネットのようにして鳴らして使う。


 簡単に鳴らし方の説明をした後、島歌ライブの開始。


 

島唄を聞いていると、暫くして注文した料理が運ばれてきた。


島らっきょうは普通だったが、ラフテーは口に入れて驚いた。皮の部分は兎も角肉の部分が固い。一煮立ちさせた程度の煮方で肉がまだ締まったままで歯で噛み砕く必要がある。
 沖縄に着いて美味しいラフテーに感激していたので余計に感じたのかも知れないが。これはラフテーではなく似て非なるものだと思った。
 フーチャンプルーは肝心の麸に味が付いていない。


 
ソーメンチャンプルーは、前に書いた美味しい条件を外している。ソーメンはくっついて絡まっており、脂と汁でソーメンがベトベトした食感でいけない。


料理が駄目では長居は出来無い。ライブが終わったら店を変えることにする。


 
島唄ライブの最後はお決まりのカチャーシー。
簡単に男と女の手の握り方・振り方を説明した後、島唄を開始。
三線、唄、合いの手、口笛が一体となって全員でカチャーシーを踊り、ライブは終了した。



「まんじゅまい」を出て、近いので「ゆうなんぎい」に向かった。
人気店なので、行列状態を心配したが本土の冬とは違って寒くない。外で待っても何の問題も無い。


着いてみると、確かに順番待ちだったが、3番目で、タイミングが良かった所為か、すぐ小上がりの席に座れた。


 
メニューは、昼とほとんど同じだが、ランチタイムでは料理の価格に含まれていたご飯+お汁+お新香のセットが別料金で150円になっている。


泡盛は、銘柄は記載されていないが古酒を注文。
料理は,ランチの時美味しかった、ソーキとラフテーとフーチャンプルーを注文した。


隣の席に後から座った若い女の子3人。
メニューを見ながら鳩首協議。
ゆうなんぎいの大将が、メニュー表を見ながら説明している。
3人で料理をそれぞれ頼むと多すぎるから、A定食またはB定食をみんなで分けた方が良いとか一品ずつ頼んで3人で食べた方が良いとか商売気抜きで親切に説明している。次に、メニュー表の料理を一つ一つ説明している。お客の立場で、親切だ。
 それが終わったら、今度は新しく並び始めたお客の整理応接だ。店内の椅子席に並ぶ人、外の椅子に並ぶ人の交通整理。
 内は料理が早いから直ぐ席は空くよと話している。


大将は来客の応接・交通整理・案内が役割らしい。
料理・店の運営は女性の担当。
沖縄らしい役割分担だ。
女性が動かす世の中の方が平和なのかもしれない。
古来日本は女権社会であったし、その伝統は現在にも引き継がれている。


 
カラカラに入った古酒と氷と水が運ばれてきた。
この店は、氷・水は泡盛の料金に含まれている。
古酒は、熟した立香があり、泡盛らしい味の厚さがあり、水割りでも泡盛らしさが失われない。島の人に愛されそうな泡盛らしい泡盛。
 昨夜飲み比べた泡盛の中では、瑞泉の古酒に近いと思った。


 
フーチャンプルーは、麸の下味がつけられており、チャンプルーにウルサイ我々も納得できる内容で美味しかった。


 
ソーキ煮。
ランチの時同様に柔らかくとろけるようである。
箸でつまみ上げると崩れるほど柔らかく。
脂は抜けてサッパリしている。


 
ラフテー。
この店のラフテーはみそ味。
形は崩れていないが、箸で切り分けられるほど柔らかく煮込んである。
 満足である。


 
座席の隣の棚にガラスの小瓶が置いてあった。
八重山特産「ぴぱーち」と書いてある。
調味料・香辛料のようだ。今まで見たことが無く、手にとって蓋を開け香を嗅いで見る。
 良い香りである。何かシナモンのような爽やかな香り。
後で調べてみると島胡椒で「ぴやーし」とも言うらしい。
 沖縄そばにかけるのが一般的だが香りが良いので色々使えそうだ。


勘定の時、古酒の銘柄を聞いてみた。
若い女性がこれですと指さした1升瓶を見ると「瑞泉」だった。


満足して外に出て、国際通りに戻るり、安里の方向へブラブラ歩いて国際通りの今を確認して歩いた。


那覇の夜は、タクシーが直ぐ捕まり、近くでも嫌な顔をしないので気持ちが良い。


 

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月30日(土) 記事No.5765

2010/1/30 (土)  赤穂義士祭  望  日出: 6時42分  日没: 17時06分  月出: 17時12分  月没: 6時22分  月齢: 14.83  庚辰 (こうしん,かのえたつ)  六曜: 先負  九星: 八白土星  選日:


今日の季語: 討ち入り、赤穂義士、義士祭、義士の日、義士討ち入りの日、赤穂義士祭


 




(姫路 赤穂義士祭 MAPPLE観光ガイド より転載)


 


討ち入り、赤穂義士の俳句:


・葛湯吹き今日討ち入りの日と思ふ 冨田みのる


・大義よく人死なしむる義士祭 岡本眸


・曇天の花重たしや義士祭 石川桂郎


・討ち入りの日は家に居ることとせり 大串章


・義士の日の火の線香を山と積み 檜紀代


・松に月義士討入の日なりけり 安住敦


・討入りの日や下町に小火(ぼや)騒ぎ 鷹羽狩行



1703年の今日1月30日(元禄15年12月14日)、大石内蔵助ら旧赤穂藩士47人が吉良上野介邸に討ち入り、主君の仇を討った。


新暦の12月14日の雪の討ち入りは考えにくいが、1月30日の雪なら納得できる。
 雪の日は何か事件が起きやすいい日だ。



 

(2)日記 |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月29日(金) 記事No.5766


朝、目が覚めると昨夜の雨は嘘のように止んでいた。
天気が回復すれば、当初の予定の通り花見も出来る。
昨日、雨のために通り過ぎた今帰仁城址、八重岳も行くことが出来る。
 今日の宿舎は首里の日航那覇グランドキャッスル。観光ポイントを回りながら夕方には到着したい。
 昨日のリカバリーも含めて廻ることになれば、かなり急がしい行程になる。
 早めに朝食を済ませ、オクマの構内を散策して出発することにする。



今日は、昼は花見、夜は那覇での宴。
天気も良くなったし、楽しみである。




 
朝食は、サーフサイド・カフェ。
洋食のビュッフェである。



 
自家製焼きたてパンがセールスポイントなので、焼きたてのパンが次々に出される。



 
飲み物は、普通のもの。
コーヒー、紅茶、日本茶、ジュース、牛乳など。



 
日本食もある。
ゴーヤーの漬物、昆布の佃煮が美味しかった。



 
かまぼこ、揚げだし豆腐、大根の煮物。
和食は何かホッとする。



 
ソーセージ、ミートソース・スパゲティ、スクランブルエッグ。



料理は温かく、保温されているが乾かないように管理されており、出来立てを食べることが出来る。
 味付けは薄味だが丁寧に美味しく造られている。昨晩もそうだが、オクマの食事は上品でよかった。



食後の散歩で構内を歩く。
 
宿泊棟が構内に点在しているので、全て歩けば時間がかかるので、少しだけ歩き、浜辺の方にも行くことにする。



 
玄関を出ると、ブーゲンビリアが多くの花を付けていた。
花の乏しい本土から沖縄に来ると花と緑が目に眩い。



 







宿泊棟は玄関・レストラン棟から離れているところもあるので、昨夜のように雨が激しいと大変だが,今日のように晴れると芝生の中を歩いて行くのは清々しい。



 
垣根にはところどころハイビスカスが咲いている。



 
花ばかりではなく、葉も存在感がある。
緑と黄色のコントラストが美しい。
ジッと見ていると1月の自宅周辺の厳冬が信じられなくなる。




玄関前の道路を横断すると、ビーチだ。



 



 
晴れれば温かいので泳げないことはないが、流石にまだ誰も泳いではいない。



 
那覇・北谷のような繁華街から離れ、ビーチでのんびりと時を忘れて過ごすのも悪くない気がする。
 オクマは、そんな気を起こさせる場所だ。



  








サンゴの白砂の浜辺は遠浅で美しい。



 
波打ち際には、打ち上げられた。サンゴ、貝。
よく見ると色々な貝がサンゴの中に混じっている。
子どもたちなら喜んで拾い集めてコレクションを楽しむだろう。



 
少女趣味だが、形の良いものを記念に拾った。


ビーチと道路の間にはプールもある。
 
プールサイドには、大浴場としても利用できるSPAがある。



  








玄関ホールには熱帯魚の水槽があり、沖縄の色鮮やかな魚たちが泳いでいる。
 見ていると時を忘れてしまうが、出発しなければならない。



玄関から200mの駐車場まで車で送って貰い、最初の目的地である今帰仁城址に向かう。




 

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 | 

2010年01月29日(金) 記事No.5767


昨日は雨のため寄れなかったが、今帰仁城址では桜まつりがこの時期開催されている。



 



県道を左折し今帰仁城址への道を登ってくると、駐車場が整備されていた。
 以前の観光客も少ない静かな城址ではなくなっていた。

 
駐車場の近くには、入場券の販売所・売店の新しい建物が出来ていた。
 世界遺産に登録されたので意欲的に整備が進められている。



 
城址への道筋、青いビニールシートがかぶせられた場所が有った。
文化財の発掘調査が行われていた。




 
城址の入り口は昔と変わっていなかった。
昔の入場券販売所は、入り口の案内所になっていた。



 
平朗門入口の階段の先には、桜の並木が見えた。




 
幸運にも晴れてくれた青空を背景に桃の花のような桜が美しく輝いている。
 ここは冬ではなく春だ。



 
沖縄の桜は、琉球緋寒桜(ヒカンザクラ)と呼ばれ、本土のソメイヨシノとは違って開花期間も長く、ハラハラと風に散ることも無い。
 本土のイメージでは紅梅・桃の花の印象に近い。



 



 
『カンヒザクラ(寒緋桜、学名:Prunus campanulata)はバラ科サクラ属の植物。桜の原種の一つ。旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元日桜)と呼ばれることもある。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもあるが、ヒガンザクラ(彼岸桜)と混合されやすいため、近年はカンヒザクラと呼ばれることが多い。



 特徴
釣り鐘状の花が特徴。花の色は白から濃いピンク色まで様々なものがある。おおよそ1月から2月上旬にかけてが開花期となる。花の大きさは1.5~2.5cm程度。樹高は5m程度。葉は秋になると紅葉する。



 分布
中国南部から台湾にかけて分布する桜である。日本では園芸品種とされるが、主に沖縄県で野生化し、沖縄で「桜」と言えばこのカンヒザクラを指す。また、沖縄や奄美でのサクラの開花予想及び開花宣言はこのカンヒザクラの開花に対して発表される。沖縄では1月から2月に開花し、また、関東より南でも植えられており、2月から3月にかけて花を咲かせる。』(Wikipedia)



 
七五三の階段と呼ばれる参道は、戦前に整備されたもので、その時参道両脇に桜の木が植栽されたそうだ。



 



 
桜並木では観光客が桜を前に記念撮影したり、花を写したり忙しく。人が絶えることが無い。



 
本丸である主郭の辺りは以前と変わっていなかった。



昔お姫様が緑の黒髪を洗ったといわる真ん中の窪んだ石が有り、由来の記述も有った記憶がある。その石になにか艶かしさを感じたことがあるので探してみたが見つからなかった。
 帰りに案内所の女性に聞くと"カラウカーですね。ありますよ。"といわれた。地図には載っているらしいので説明板がなかったのだろうか。



 
昔は無かったように記憶しているが本丸から下に降りる階段が整備されていた。志慶真門郭(しじまじょうかく)と呼ぶらしい。



 
階段から下の城壁に目をやり、視線を左の方へ回して行くと海が見える。



 



 
景色の良い場所である。



 
城壁と桜並木が遠望出来る。



  





 





 
世界遺産に指定された今帰仁城は、今も整備が続けられている。
城址にはまだ手の着けられていない場所が残っているので、整備が進めば一層観光客が集まる名所になるだろう。



 
総合案内所の前に今帰仁村歴史文化センターがある。



今帰仁城の歴史に関する資料・説明が解りやすく展示されている。



 
本丸に有った山北今帰仁城監守来歴碑記が保存されている。
『碑文大意
むかし琉球はいくつもの地域に分裂して治められていたが、最後は北山・中山・南山の三山が鼎立するようになった。そのとき佐敷按司であった尚巴志が立ち、三山を統一したが、北山は険阻でまた人も勇猛、中山からも遠くあり教化するのにも難しい。変乱の生ずる恐れもあるため尚巴志王は自らの次子である尚忠を監守として派遣した。そのご即位した尚徳王は酒に耽り色を好み、遂に臣民に叛かれ、尚円が推戴され王となるが、尚円王も大臣を派遣し監守せしめた。



そして弘治年間、尚真王は第三子である尚韶威を監守として派遣した。これが吾が元祖であり、以来われわれ一族が代々監守職をつとめることとなった。康熙4年になって、七世の向従憲が、命により首里へ居を移すこととなったが、そのごもわが家が今帰仁城と旧跡の典礼を司ってきた。しかし乾隆7年に王府が城域を郡民に授け、典礼も行わせようとした。そこでわたくし尚宣謨が往事の事情等を奏上したところ、これまで通りわが家が城地を管理し典礼を司ることがゆるされた。わが家は元祖の尚韶威から北山を鎮守している、この徳と功はわが家の子々孫々におよぶものである。わたくし尚宣謨は来歴をここに記し不朽のものとする。



皇清乾隆14年己巳秋八月穀旦十世孫 尚宣謨・今帰仁王子朝忠 謹立。』(Wikipedia)



展示品には城址からの出土品がある。
 
釉薬の掛けられた陶器は,東南アジア、中国のものが多く、沖縄の交流圏が解る。



 
出土した通貨・銅銭は中国のものが多く展示されている。
沖縄の歴史の問題に入ると話がややこしくなるが,琉球は王政のある独立国であったが、1609年の島津藩の琉球侵攻により島津藩の支配下におかれ、明治政府の琉球処分により日本国に成っている。
 これらの通貨を見ていると沖縄は中国の一部で有ったような錯覚に襲われるが、日本の通貨が流通していなかったのだろうか?
 流通していたのであれば展示すべきと思うのだが。



沖縄と本土に住む人のルーツに付いては血液、遺伝子、犬の遺伝子、言語学など多方面から研究されている。
 近代の商業・交易圏としては中国に近かったことは確かだが、言語学的には、琉球方言は、約1000年前の京都のアクセントと同じ体系から分かれた事が明らかになっているそうなので、奈良時代以前に遡れば本土と同じ言語を話していた同じ民族と考えられる。



 



 



センターを出て駐車場に向かう途中の光景。
今帰仁城址は岩盤が地表に露出している。その岩盤にへばりつくようにガジュマルの根が張り付いて生い茂っている。
 このような光景を見るとガジュマルの生命力に圧倒される。沖縄らしい光景だ。



今帰仁城址のデータは以下で見ることが出来る。
今帰仁村HP。
http://www.nakijin.jp/nakijin.nsf/doc/5_9_2?OpenDocument#4



今帰仁城は、まだ昔の面影を残していたが、世界遺産に登録されて一層整備が進んでいる。
 開発の波は那覇から北上しているので、近い将来此処も観光客で身動き出来ない様になるかもしれない。



今帰仁に別れを告げ、八重岳の花見に向かう。




 

(13)散歩・お出かけ |  トラックバック(0) |  コメント(0) |  記事を編集 |