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2009年05月14日(木) 記事No.6237


【原文】
一日、濃州より来る自本と云遁世者、師を辞するに示曰、是は我が其方ゑの遺言也。必我に無後世を人に教ゑめさるヽな、只人には我信実を起して見するが好、総而化廻れば、先今生も住にくき物也。只一心不乱に念仏を用ひ、我に離程申さるべし。我に離ると云は、南無阿弥陀仏\/と死習て、死の隙を朋る事也。其方も、自本は秘蔵なるべし。永き事は入ぬ、只念仏を以て、自本を申し尽すべしと也。



【要約】
 ある日、濃州(岐阜・美濃地方)より来ていた自本という世捨て人が去るにあたって老師が自本に教えて云われた。「是は、私のお前に対する遺言である。自分に無い後世を絶対に人に教えてはならない。只、人には真の自分の姿を見せるのが良い。大概、自分を実物以上に見せれば、此の世も住みにくくなるものである。只、一心不乱に念仏によって、自分を忘れる程唱えなさい。自分を忘れるというのは、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱え、死を修行して、死から自由になる事である。お前にとって、自本というものは特別なものだろう。遠い未来の事は必要ない、只、念仏を以て自本というものを唱え尽くしなさい。」と。



【註】
 後世: 仏語。
1 死後の世界。あの世。来世。後生(ごしょう)。のちのよ。「―を弔う」→現世(げんせ) →前世(ぜんせ)
2 来世の安楽。「―を願う」


一心不乱(いっしん‐ふらん)
[名・形動]心を一つの事に集中して、他の事に気をとられないこと。また、そのさま。「―に祈る」「―に研究する」



【寸言・贅言】
正三は、修の人である。證は自ずからのものであり、求めてどうなるものではない。悟っていないのに悟ったように振る舞う偽物を嫌った。悟って無いのに悟りの世界の事を話したり、自分が知ってもいない悟りの境地のことを人に話す事を嫌った。
正三は教えを求める人に人を見て法を説いた。自本という美濃から来た修行者は心が現実から離れ此の世にないものに向かい勝ちなのを知っていて諭したものであろう。
 遠い分からない世界の事に関心を持つ必要は無い、増してそれを人に説いてはいけない。只、ひたすら念仏を唱え自分と言うものから自由になるように教えた。問題は空想の世界ではなく、目の前の自分の足許の現実での一挙手一投足に集中する事が必要である事を説いた。證の為の修ではない、只の修である。
 諺にいう「桃李不言下自成蹊」(桃李ものいはざれども、下おのづから蹊を成す)(司馬遷・「李将軍列伝」(史記))も同じ消息を伝えている。


この段は、正三らしい言葉で正三の仏法を説いているので、訳すのは避けた方がよいだろう。原文をそのまま何度も口に出して読み、正三の教えを心に感ずる方が良い。"

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2009年05月07日(木) 記事No.6251


【原文】
師一日去処に到る、彼家に二人の息女有。一人は十日先に気違に成、亦一人は三日先に死したりとて、其母狂人の如くに成、悲み居けるに、師教化有て帰り給ふが、道にてひしと行留り、愕然として曰、扨も\/不便千万なる事哉。我と造り病を作苦む物也。生に付、死に付、子に苦む有様、痛敷事也。出家は、是計も仏祖の御恩徳恭き事也。


 


【要約】
 老師はある日去るところへ行かれた。その家に、二人の娘があった。一人は十日前に気違いになり、またもう一人は三日前に亡くなったので、其の母は狂人の様になり、悲しんでいたので、老師は教え導いて帰えられたが、帰りの道でピタッと立ち止まり、驚いたように云われた。「本当に、本当に哀れな事だ。自分で自分の病気を作って苦しんでいるのだ。生まれるに付け、死ぬに付け我が子について苦しむ有様は痛々しい事だ。出家は、この事についても仏様の御恩徳が有り難いものである。」と


 


【註】
ひし‐と【緊と/犇と】
1 すきまなく密着するさま。しっかりと。ぴったりと。「―身を寄せる」「―抱きしめる」
2 深く心や身に感じるさま。「真心を―感じる」
3 強く押されて鳴るさま。


不便(ふびん)
[名・形動]《「不憫」「不愍」は当て字》
1 (不憫・不愍)かわいそうなこと。あわれむべきこと。また、そのさま。「―な子」
2 都合が悪いこと。また、そのさま。


痛敷い(いたまし・い)
1 目をそむけたくなるほど悲惨である。痛々しい。
2 迷惑である。
 
恩徳(おんとく)
1 恵み。情け。恩恵。 2 仏語。三徳の一。仏が世の人を救おうとしてたれる恵みの徳。


 


 【寸言・贅言】
「這えば立て、立てば歩め」の親心だから親の心は休む事を知らない。学校だ、成績だ、非行だ、就職だ、結婚だと際限なく問題は続いていく。気にしなければ良いと思っても、其処は親、冷静に落ち着いている事は出来ない。そんな苦労の種なら一層子供など作らなければと思っても、それでは寂しいし、全員がそうすれば人類は忽ち滅亡する。
 人間も生きものである以上、生まれ死に生まれ死にの無限の連鎖を続けなければならない。子を喪った親の哀しみは誰も替わる事は出来ない。正三は、救う事の出来ない其の心を痛ましくじっと見ている。


吉野弘の詩に「I was born」がある。


- I was born -


 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。


 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。


 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。


 女はゆき過ぎた。


 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。


 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。


 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。


 

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2009年05月06日(水) 記事No.6253


【原文】
一日語衆曰、我此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結度心有、故に度々山居しけれども、天道に許されずして是を遂ず。乍去、今は夫がよいに成也。其儘居たらば、能仏法者に成り、打上て錯りを知ざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると思ふ也。今思に、山居を好むは異風ずきのだてな心也。在家にて坪を構へ、座敷を飾ると一つ心也。時に或人云、此比去処に遁世者有、誠に彼等も異風に見ゑたり。乍去理を説事明なり。師聞曰、云習へば如何程の事も云物也。今時の仏法者、理窟に落て是と思ふ、諸人も是を貴き事に思って、此人を貴ぶ也。誠に理窟程用に立ぬ物なし。却て大きなる怨と成物也。我も若き時、此に錯りたる事有、必ず理窟に落めさるヽなと也。



【要約】
 ある日老師は大勢の人に向かって言われた。「自分は昔は山での生活が好きで、僅かばかりの森林を見ても、庵を構えたいと思う心があった。その為、何度も山に住んだけれども、天の定めにより山に住む事を成し遂げられなかった。しかしながら、今はそれがよいと思うようになった。そのまま山に住み続けたならば、立派な仏法者になり思い上がって自分の間違いに気づかなかっただろう。以前は、山に住むのを良いと思ったが、今では悪い事だと思うのは修行が少し進んだと思う。今思えば、山に住む事を好むのは、変わり者の目立ちたがりである。在家の人が、中庭を構え座敷を飾り立てるのと同じ心である。」と。その時ある人が言った。「最近あるところに世捨て人がおり、本当に彼らも変わり者に見えた。併し、理論的な事には通じている様に思われた。」と。老師はそれを聞かれて、云われた。「口先だけであれば、どれほどの事でも云う事が出来る。今時の仏法者は理屈に嵌り込んでそれでよいと思い、他の人もこれを立派な事と思いこんで、この人を尊敬するのである。本当に、理屈程役に立たないものはない。反って、大変な仇になるものだ。自分も若い時に、この誤りを犯した事がある。絶対理屈に嵌り込まないようにしなさい。」と。



【註】
山居(やまい〔‐ゐ〕):
  山に住むこと。また、その居所。やまずみ。さんきょ。


異風: 1 普通と異なった風俗・風習。2 普通でない姿。異体。異俗。


伊達(だて): 人目を引くはでな服装や振る舞いをすること。見えを張ること。


坪: 壺とも書く。宮中で、建物や垣根に囲まれた中庭。坪庭。


 


【寸言・贅言】
世法則仏法を説き、修行には実用性の検証を受けなければならないという正三らしい話である。一人だけで修行をし、悟りを開いたと思っても、それだけで慢心しては駄目で、世間に降りて通用するものであるかどうか検証する必要がある。
理論家、芸術家、職人は自分の理想を追い、その作品が世に認められなければ世が悪いと思いがちだ。実の用に供して有効でなければ何の価値もないもので、単なる独りよがり・自己満足に過ぎない。
 独善では駄目で世の中に出して有用性を検証する事が必要である。
必死であればある程、拘れば拘る程この誤りに落ちる可能性は大きくなる。思いこみの強い人程この誤りに注意する必要がある。
自分を相対化してみる他人の目が必要であり、その眼に映る自分を自覚する事が次の次元に進む道筋であると説いている。



 

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2009年05月05日(火) 記事No.6255

 


【原文】
一日語曰、我此前洛陽に有し時、紫野より僧一人来り、古則杯聞けるに、我常の如く相摂す。後に聞ば我を賺に来ると云。我本より後に廻る事下手也。此故に人にだまさるヽ事多し、乍去今は功者に成て、左様の者に相摂する事、上手に成たり。若き衆に教て置べし。若左様の者来り法を問ば、如何にも謙て、左様の事を存ぜぬ也、能事有ば習ひ申んと云て、打上て置べしと也。



【要約】
 ある日老師は云われた。「自分が昔京都にいた時、紫野の大徳寺から僧が一人来て、古則公案について問答があった。自分は普通に挨拶したが、後で聞けば自分をだましに来たと云った。自分はもともと相手の裏を読むのは下手である。このため、人に騙される事が多い。しかしながら、今では巧くすることが出来るようになり、その様な者に挨拶する事が上手になった。若い人達に教えておきたい。もし、その様な者が来て仏法について問答があったならば、すっかり謙ってその様な事は知りません、良い事をご承知ならば教えていただきたいと相手を持ち上げておけばよい。」と。



【註】
洛陽: 平安京の左京の称。右京を長安と称するのに対する。また、京都の異称。


古則: 禅宗では、唐の時代の禅者の言行を中心に伝えた「話頭」、「古則」等が重視される。、修行者は古則・公案を仏道修行の手本とする。


相摂: 不明だが、挨拶のことか。ここでは挨拶としておく。 挨拶は、「挨」は押す、「拶」は迫る意で、本来、禅家で門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すことをいう。


賺す(すかす): 言いくるめてだます。


 


【寸言・贅言】
仏道修行の話でなくとも、日常生活でも時に経験する事がある。所謂「試す」である。
何度か経験があるが、自分は正解を知っていて、敢えて他の人に質問する人がいる。これは正解を求めているのではなく、他人を試みているのである。試みている人は分からないだろうが、試みられている人は案外それに気付いているものである。



 

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2009年03月25日(水) 記事No.6328

 


【原文】
一日示曰、道を知ぬは是非も無事也。今時侍の子どもが出家して、死人の皮を剥、世を渡る者多し。究めたる非興也。菩提の為には出家然るべし。身過の為には非義也。百石も望社苦なれ、身一つ過る分は安き事也。必ず、志しなく無道心にして出家し、人の信施を受べからず、一向足軽にてもして過たるが能也。世間を以て地獄に入たるは、仏法を以て救ふ頼みあり。仏法を以て地獄に入たる者、なにを以て救ふべきや、永劫浮ぶべき便り無と也。


 


【要約】
 ある日教えて言われた。「仏道を知らないのは何とも致し方ないが、今時の武士の子が出家して、死人を食い物にして生活する者が多い。これは究めて卑怯なことである。死後の冥福を弔うために出家するのは尤もなことだが、生業のためにするのは間違いだ。百石も欲しいと思うから苦しいのであって、身体一つで生きていくのであれば易しいことである。絶対、志無く仏道修行の心が無く出家し、人からお布施を受けてはならない。ひたすら足軽にでもなって生活する方がよい。俗世間で地獄に入るのは、仏法によって救うことが出来る。しかし、仏法をもって地獄に入った者は何を以て救うことが出来ようか。永久に地獄から浮かび上がる方法は無い。」と。


 


【註】
 菩提(ぼだい): 《(梵)bodhiの音写。智・道・覚と訳す》仏語。
1 煩悩(ぼんのう)を断ち切って悟りの境地に達すること。また、悟りの智恵。
2 死後の冥福(めいふく)。


身過ぎ(みすぎ):
1 暮らしを立てていくこと。また、その手だて。なりわい。
2 身の境遇。


信施(しんせ、しんぜ): 信者が仏・法・僧の三宝にささげる布施。


一向(いこう): [副] ひたすら。
 
足軽(あしがる): 《足軽くよく走る兵の意》中世・近世、ふだんは雑役を務め、戦時には歩兵となる者。戦国時代には弓・槍(やり)・鉄砲などの部隊の兵士として活躍。江戸時代には諸藩の歩卒(ほそつ)をいい、士分と区別された。


 


【寸言・贅言】
正三が今生きていれば、葬式仏教と言われる仏教界の実情に慨嘆するのは間違いないだろう。江戸時代に始まった檀家制度は本来の宗教としての仏教を堕落させてしまった。居士の戒名を受けるには80万円、院殿は数百万円のお布施が必要だ等の風説を聞くと仏法で地獄に落ちていると言わざるを得ない。
 危機感を持つ志のある僧侶は仏教界の改革を目指しているようだが未だ主流にはなっていない。お金がなければ何も出来ないことも事実だが、昔の寺は学校であり、修行所であり、駆け込み寺であった。心を病んだ人、身寄りのない人、知識を求める人、悩みを抱えている人の集う場所であった。
 心の病は今は精神科医の仕事だが、本来は寺の仕事の筈、薬では治せない心の病も多いから、心ある僧は、この方面で活躍して欲しいものである。長い伝統の遺産には現代人の心に通じるものがあるはずである。少し努力すれば、人の悩みを解決できるだろうし、自己中心の自我肥大の現代人に仏教の教えこそ必要なはずである。


葬式仏教については、以下のWikipedia参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99



 

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