2019/03/31 (日) 旧暦: 2月25日 祝日・節気: 日出: 5時30分 日没: 18時01分 月出: 2時52分 月没: 13時14分 月齢: 24.46 干支: 丁卯 六曜: 友引 九星: 七赤金星 今日のあれこれ: 花見 「2019/3/31 上野恩賜公園 花見」 https://youtu.be/-QVf73JPOoQ 『花見(はなみ)は、主に桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。梅や桃の花でも行われる。別称は観桜(かんおう)であ...
2019/03/31 (日) 旧暦:
2月25日 祝日・節気: 日出: 5時30分 日没: 18時01分
月出: 2時52分 月没:
13時14分 月齢: 24.46 干支: 丁卯 六曜:
友引 九星: 七赤金星
今日のあれこれ: 花見
「2019/3/31 上野恩賜公園 花見」
https://youtu.be/-QVf73JPOoQ
『花見(はなみ)は、主に桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。梅や桃の花でも行われる。別称は観桜(かんおう)である。
概要
桜は、日本全国に広く見られる樹木である。花見で話題になる代表的な品種のソメイヨシノはクローンであるため、各地で「休眠打破」がなされてから各地の春の一時期において、おおむね地域毎に一斉に咲き競い、日本人の季節感を形成する重要な春の風物詩となっている。
サクラは開花から散るまで2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は、人の命の儚さになぞらえられたり、または古来、「桜は人を狂わせる」と言われたりしてきた[1]。
独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見弁当や酒を愉しむ宴会を開くことが伝統的である。花を見ながら飲む花見酒は風流なものではあるが、団体などの場合、乱痴気騒ぎとなることも珍しくない(「諸問題」の項を参照)。陰陽道では、桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈する。
花見は、訪日外国人旅行の来日目的になったり、風習としてアジアや欧米に伝わったりしている[2]。北半球と南半球は季節が逆転しているため、地域毎に年中行事としての花見の時期は異なる。
歴史
日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞され、平安時代に桜に代わってきた。それは歌にも表れており、『万葉集』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられる。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、桜が70首に対し梅が18首と逆転している。「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からである。
『日本後紀』には、嵯峨天皇が812年3月28日(弘仁3年2月12日)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催した[7][8]とある。時期的に花は桜が主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は地主神社の桜を非常に気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたといい、当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる[9]。831年(天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『作庭記』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこの頃に誕生したと考えられている[9]。
鎌倉・室町時代には貴族の花見の風習が武士階級にも広がった[10]。吉田兼好は『徒然草』第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、ともあれ『徒然草』が書かれた鎌倉末期から室町初期の頃には既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。
織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される[11]。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉が行った吉野の花見(1594年(文禄3年))や醍醐の花見(1598年4月20日(慶長3年3月15日))がある[7]。
花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代といわれる。桜の品種改良もこの頃盛んに行なわれた。江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、天海大僧正(1536年(天文5年)? - 1643年(寛永20年))によって植えられた上野恩賜公園の桜である。しかし格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、1720年(享保5年)に徳川吉宗が浅草(墨田川堤)や飛鳥山に桜を植えさせ[12]、庶民の行楽を奨励した。吉宗は生類憐れみの令以降途絶えていた鷹狩を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場に桜の木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。江戸の城下・近郊の花見の名所は上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤の他にも、御殿山 (品川区)、愛宕山、玉川上水など少なからずあった。この時期の花見を題材にした落語としては、『長屋の花見』や『あたま山』、飛鳥山の花見を想定して作られた『花見の仇討(あだうち)』などがある。
明治に入ると、桜が植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り[9]、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着[14][9]。78種が植栽された荒川の桜は各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれ、全国へ広がった(1912年には、日米友好の印として荒川の桜の苗木3000本がアメリカ合衆国の首都ワシントンに贈られ、ポトマック川畔に植栽された)[14][9]。
…』
(Wikipedia)
花見の俳句:
・花見んと致せば下に下に哉 小林一茶
・年寄の腰や花見の迷子札 小林一茶
・けふは花見まじ未来がおそろしき 小林一茶(1763-1827)
・お花見や乾杯の後雨来る 白石正躬
花見は、昔から今に至るまでよく詠まれる季語。
江戸期の芭蕉、蕪村、鬼貫、丈草など知られた先達たちも花見の句を詠んでいる。
時代を通して心が通じている様に思えてうれしい。
一茶の句が面白かった。
下に下には無粋な武士への嫌味と言うより、下々の楽しみだろう。
迷い子札は、今も同じ。雑踏に紛れて迷子になるボケ老人のためのお守り。
この二句は何かユーモラスさを含んでいる。
おそろしきは、花散る刻への不安なのだろう。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
の心か...
昨日は、さけの会の花見だった。
幹事氏は4時起きで、青ビと2lペットボトルをキャリーに積んで、タクシーに乗って、名城公園へ。
朝雨が降り、隣のシートは水たまりができている。
8時太陽が出て、日当たりは温かくなったが、西北から吹く風は冷たい、手袋が欲しいほどだ。
少し先の永ちゃんグループも大量の物資を運んできて、会場設営に余念がない。
10時ころまでは、お天気のせいで芝生に空きがあったが、11時をすぎる頃には、家族、仲間の小さなグループが増え、ほとんど芝生は花見客で埋まった。
席取り後7時間経過し、14時花見は始まった。
銘酒で乾杯、花見の肴を頂きながら花の宴が始まった。
冷たい風は止むこと無く吹き続けた。
そのうち、大粒の雨も降り始めた。
宴たけなわの突然の雨は、長い歴史でも初めてだった。
終了予定を少し早めて終わることになったが、花見の快さは変わることはなかった。
白石の句も、同じような花見だったのだろう。