2014/6/26 (木) 旧暦: 5月29日 祝日・節気: 日出: 4時26分 日没: 19時00分 月出: 3時33分 月没: 17時52分 月齢: 28.35 干支: 戊辰 六曜: 先負 九星: 五黄土星
今日の季語: 麦酒、ビール
(酔人日月抄
http://history.hatenablog.com/entry/20100519/1274270443
より転載)
『ビール(英: beer, 蘭: bier)は、アルコール飲料の一種。主に大麦を発芽させた麦芽(デンプンが酵素(アミラーゼ)で糖化している)を、ビール酵母でアルコール発酵させて作る製法が一般的である。
現在は炭酸の清涼感とホップの苦みを特徴とするラガー、特にピルスナーが主流となっているが、ラガーはビールの歴史の中では比較的新参であり、ラガー以外にもエールなどのさまざまな種類のビールが世界で飲まれている。
漢字では麦酒(ばくしゅ)と表記されるが、日本では昭和時代初期まで、麦で作った甘酒を麦酒(むぎざけ)と呼んでいたことがあるので混同に注意する必要がある[2]。
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歴史
その歴史は古く、紀元前4世紀頃にメソポタミア文明のシュメール人により大麦を使い作られていたとされる粘土板の資料が最古である。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。古代エジプトにおいては、それより下った紀元前3世紀頃の時代の資料から、ビールの痕跡が確かめられており、小麦の原産地が西アジアであることからメソポタミアからビールの製法が伝わったとする説がある。
これらのメソポタミアやエジプトのビールの製法は明確には残っていないので詳しいことは分かっていない。しかし復元された製法については2つ仮説がある。一つはエジプトの壁画と現在もエジプトでイスラム教の戒律の影で密造されている酒の製法を参考にされたもので、麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは小麦のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また消化もよくなる。つまり、ビールは元来製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。穀類を豊富に産したメソポタミアやエジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。実際、古代エジプトのパピルス文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間のたった固いパンを液体でふやかすという発想は、ヨーロッパのスープの原型となった、だし汁でふやかしたパンとも共通しており、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。もう一つの製法は、現在のビールに通じる製法であり、エンマー小麦を原料に、発芽させた麦(麦芽)と煮て柔らかくした麦をあわせて酵母を添加して発酵させ漉したものである。どちらも場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあったという。また、エジプトに伝来したビールは気候条件により腐りやすかったため、ルピナスを添加して保存加工がなされていた。これはバビロニアのビールでも似たような事例で様々な薬草を加えることがあったと言う。その中にはホップも含まれたと考えられている。
一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝わったが、彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてからビールを醸造するという形をとらず、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。また日常の食物の派生形であった古代オリエントのビールと異なり、これらヨーロッパ北方種族のビールは、穀物の収穫祭に際してハレの行事の特別な飲料として醸造が行われる傾向が強かった。
ローマにはエジプトから伝えられたものがジトゥム (zythum)、北方のケルト人経由で伝わったものがケルウィシア (cervisia) と呼ばれたが、ワインが盛んだったために野蛮人の飲み物視され、流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では、大麦は砕いて粗挽きにしたものを粥にして食べるのが普通であったのである。また現在はアルコール飲料であるワインも、当時は糖分があまりアルコールに転化されておらず、非常に甘い飲み物であった。固いパンを食べやすくするブドウのジュースを濃縮し長期保存できる形にした日常の食卓の飲料、硬水を飲みやすくするために水に加える飲料としての性格が強く、酔うためにそのまま飲むのは野蛮人の作法とされ、水で割って飲むのが文明人の作法とされていた(そもそもストレートで飲むとかなり甘い)。それだけに、祝祭に際して醸造したビールを痛飲して泥酔する北方種族の習俗は、自らを文明人と自認するローマ人、ギリシア人の軽蔑の種にもなっていたのである。
しかしゲルマン人主導のフランク王国が成立すると、ヨーロッパ全土でビールは盛んに作られるようになり、ビール文化はヨーロッパに根付いた。一方で非常に甘い飲み物であったワインも、今日の製法と近くなり、ほとんど甘くないアルコール度数の高い飲料となった。そのためビールとの関係は逆転し、アルコール度数がより低いビールは、子供にもあった飲み物であると考えられるようになった。キリスト教が広まると修道院は自給と巡礼者にふるまうためのビールを醸造するようになり、技術の発展にも大きな役割を果たした。その中で発酵を安定させるなどの目的でさまざまなハーブ類を調合したグルート (en:Gruit) を添加することが行われるようになった。グルートは領主によって管理されており、醸造業者は領主から購入しなければならなかった。このため中世に用いられたグルートの製法は現在に伝わっていない[3]。
11世紀頃、ドイツのルプレヒトベルグ女子修道院のヒルデガルディス院長がグルートにかわってホップを初めて用いた。ホップには独特のさわやかな風味と雑菌抑制効果があり、15世紀頃にはドイツのビール醸造で主流となった。他の国でも次第にホップが主流となり、かつては使用を禁止していたイギリスでも17世紀頃にはホップによる醸造が一般的となった。
1516年、バイエルン公ヴィルヘルム4世は粗悪なビールの流通や食用である小麦がビールの原料に転用される事による飢餓を防ぐため、ビール純粋令を発令し、原料として麦芽以外にはホップと水しか使わないよう命じた。小麦を使った白ビールは許可を得た一部の醸造所しか醸造できないようになり、希少価値が高まった。その後ドイツ帝国の成立によりビール純粋令は1906年に全土に施行され、現在のドイツにおいても効力を持っている。15世紀中頃にはバイエルン地方のミュンヘンで、低温の洞窟で熟成させるラガービールの製造が始まった[4]。
19世紀には酵母の研究も進み、上面発酵と下面発酵の技術が確立した。1842年にはチェコのプルゼニで世界最初のピルスナービール「ピルスナー・ウルケル」が製造され、このタイプの醸造はプルゼニのドイツ語名からピルスナーと呼ばれるようになった[4]。黄金色のピルスナーはガラス製品の普及と冷蔵技術の確立によって爆発的に広まった。
日本では川本幸民がビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生した。本格的に普及したのは明治時代だが、江戸時代初期には徳川幕府の幕僚達がその存在を認知していた[5]。
現代のビールは、19世紀後半のデンマークのカールスバーグ社が開発した技術に多くを負っている。同社はビール酵母の純粋培養技術を開発し、さらに雑菌を徹底的に排除した衛生的な缶詰め・ビン詰め技術を確立した。それによりビールの保存性は飛躍的に高まり、安価で大量に安定供給される工業製品として、世界の津々浦々にまで流通するようになった。また、ビール生産が大企業に独占されることにもなった。それまではワインの方が食事に必須の日常の酒として飲まれていたが、安価となったビールが普及することにより、ワインとビールの位置が逆転した。
欧米では、この反動として工業化以前のビール生産を見直す動きが起こり、クラフトビール(地ビール)を作るマイクロブルワリーが多く設立されている。日本でも法規制が緩和されたことにより、地ビールの生産が少しずつ行われている。
...』(Wikipedia)
麦酒・ビールの俳句:
・ビール酌み三百人の祝ぎ心 岸本久栄
・ビール飲む理屈などみな後まはし 塩川雄三
・ビール園いつか皆気宇壮大に 渡辺隆
・ふるさとに絆うれしくビール酌む 芝宮須磨子
・チーズ派の真ん前トーフ派黒ビール 須山つとむ
30度を超える日が続くと、ビールの季節だ。
ビヤーガーデンが営業を始め、ビール会社は今年の新製品を売り出す。
もうビールの季節が始まる。
岸本のビールは、結婚式のパーティーに違いない。
大人数での取りあえずの乾杯にはビールが適当だ。
最初は軽いのが良いのだ。
ビールは日本酒と違って手酌は似合わない。
日本酒は独りまったりとが様になるが、ビールは惨めだ。
大人数でジョッキ片手にワイワイガヤガヤが似合っている、
日本酒は会話が可能だが、ビールは不向きで言っ放しが取り柄。 ビヤーガーデンの騒がしさの中では会話は無理だ。
パーッと盛り上がって、決まり事が終わればオシマイ。
その潤滑役がビールだ。
二人までなら日本酒が良いが、ビールでも地ビールなど拘ったものなら穏やかに飲むことが出来るかもしれない。