「愛と評価」と言う表題は、内容が取りにくいが、結構、根の深い根源的なまた普遍的な問題を含んでいる。
うるさい話が嫌いな人は読まない方が良いかも知れない。
日本酒に関して気になる話を耳にした。
驚くと同時に呆れたのだが、日本酒を愛する一消費者として考えてしまったので、自分の考えを記事にして2010年の日本酒を締めくくりたい。
その話は、この秋頃のことだったらしいが、筆者はその後伝聞として聞いた話なので、事実がどのようなものだったか明確には承知していない。
その場に居合わせてもしないし、関係者から直接話しを聞いたわけでもない。だから、事実の問題よりも話の本質・理論的側面を問題としているのである。
日本酒の会sake nagoyaという日本酒の会がある。
筆者も毎月の定例会に参加して、日本酒を楽しみ勉強させてもらっているかけがえのない会である。
定例会は、毎月1回第3金曜日に定席「旬菜どころかのう」で開催されている。
会と言っても毎月の会費納入義務が課せられているわけではなく、当日に会費さえ支払えば誰でも参加できる極めてオープンな会である。
申し込みは先着順で新規参加者も常連さんも同じ取扱いで、人気銘柄が登場する月には、直ぐ満席になり常連さんが締め切りの憂き目を見ることも多い、非常に平等な運営が行われている。
締め出された常連にしてみれば、平等すぎる・悪平等だとの気持ちもあるだろうが、そんな声を出さない程常連さんは紳士・淑女揃いのようだ。
この会の特色は、当日の参加者全員による日本酒のブラインド評価を行うことだ。
出品酒(約12銘柄)をブラインド評価のため番号のみ書かれたデキャンターから猪口に注いで、10点満点で評価する。
日本酒を飲み込んだベテラン・マニアも初心者も同じ10点満点で評価する、これも平等だ。
今利いている酒の銘柄が何なのかは、酒の瓶からデキャンターに移している幹事以外は誰も知らない。有名銘柄とかスペックとか価格とか何も情報はない。自分の舌が頼るべき唯一もので、他に何も助けてくれるものはない。
ここでの評価基準は個人の嗜好に拠るもので、要するに好き嫌いである。
個人の評価シートは、その場で回収され集計され、当日の参加者全員でのブラインド評価結果が公表される。
1位から最下位まで順番にブラインドが外され、評価結果と銘柄が白日の元にさらされる。
有名な酒が意外にも下位だったりすることもある。自分が最下位に評価した酒が1位だったりすることもある。
参加者全員の評価結果という事実の持つ重みが表面化し実感できるスリリングな瞬間である。
この全員の評価結果は、後日日本酒の会のサイトにアップされる。
全員による評価が終われば、その後は普通の宴会である。
銘柄の書かれた瓶から、お猪口に注いで飲むことが出来る。
全体の評価と自分の評価と銘柄を見ながら、色々な感慨を込めて再び利くことになる。
これでこの記事の事前準備が終り、ここからが「日本酒 愛と評価」の本論である。
問題は、全員の評価の結果の公表にある。
この秋頃、こんな話が日本酒の会にあったそうだ。
1.評価を公表するのは良くない。失礼だ。
2.参加者が評価を強制させられている。
直接、話を聞いたわけではないので細かい趣旨とかニュアンスは判らないが要約すれば以上の表現になる。
筆者は、全く違った見解を持っているので参加者の一人の声として記事にするのが、この「日本酒 愛と評価」である。
まず、1の問題について。
論点は2つある。
1つは、評価の公表の持つ意味。
2つは、参加者自身の嗜好の自覚
1.【評価の公表の意味】
参加者全員の評価結果を公表するのは、発売している蔵元・造っている杜氏にも大きな意味がある。失礼どころか感謝されるべきことと考える。
上位になった銘柄は特段論じる必要はないが、問題は下位になった場合である。
つまりこれを悪評と考えるべきなのかという問題である。
伝聞では、この話は、居酒屋の店主が蔵元から聞いた内容が話として伝えられたとのことだが、営業妨害だ・民事訴訟を起こし損害賠償を請求するという穏やかでない話もあったそうだ。
どの蔵元・杜氏も自分が販売・醸造している酒は可愛い。その酒が最下位に評価されたりすれば、悲しいことは確かだ。
ただ、それで公表してほしくないと本当に思うのだろうか、蔵元から日本酒の会に苦情が入ったということは聞かないし、滋賀県の酒特集の定例会にはわざわざ滋賀から蔵元・杜氏さん達が定例会まで足を運び参加され、評価結果に一喜一憂されておられた。
日本酒の会の毎月の参加者は50名程だが、前に書いたように全くの初心者から全国の銘柄のスペックを諳んじ印象を語れるほど飲み込んだ剛の者まで参加している。
言い換えれば、母数は少ないが日本酒に関心がある日本人による評価の統計データなのである。
世の中に日本酒を楽しむ会は数多いが、特定の酒屋・料理店・居酒屋などが主催するものが多く、内容は扱っている銘柄とか提供している銘柄を楽しむ企画である。
日本酒の会のように特定のテーマのもとに毎月10銘柄以上をブラインド評価をし、公表している会は寡聞にして聞かない。
蔵元・杜氏にとってわが子のように可愛い酒が、一般消費者にどのように飲まれたかは当然知りたいことのはずだ。
もし蔵元・杜氏がそのように考えないとしたら、物事の道理・本質をしらないボンボン・偏屈職人でしかない。
造られ・販売される酒は一点物の芸術作品とは異なる。消費者が身銭を出して買ってくれてなんぼのものである。
いくら造っても消費者が買ってくれなければ、死蔵品になり商売にならないのは明白だ。こんな道理が判らない様な蔵では将来は暗いとしかいい様がない。
有名な経済学者のケインズの言葉に「美人投票」がある。
ケインズは自分自身が株で成功した実利にも強い学者であったが、空理空論家ではなく現実をよく見ていた。
投資行動の原則は、美人投票の結果を当てるようなものである。自分が美人と思っても大多数の人が美人と思わなければ投資にならないのである。
なぜならば、独りよがりの投資は、他の人の評価を得られず、投資のリターンが得られない。言い換えれば、自分が良い酒だと思っても、消費者が良いと思い金を払ってくれなければ売れないのである。
金を払って飲んでくれる多くの消費者の評価が得られるような酒を出さなければ商売にはならず、趣味で終わってしまう。
つまり商品設計の段階から消費者の好む酒を造り・販売することが業として酒を作り続けることの要件である。
評価の問題は難しい。
消費者意識の発達したアメリカには、Consumer Reportsという月刊誌がある。
この雑誌は、非営利の消費者組織であるコンスーマーズ・ユニオン(Consumers Union)が1936年から発行しているものだがアメリカの消費者行動に大きな影響を与えているそうだ。
日本酒の評価にかんしては、最も権威があるのは全国新酒鑑評会だが、これは市販酒ではないし、評価者もプロが多く、一般消費者ではない。
だから、この新酒鑑評会に参加しない蔵もあるようだ。
日本でも日本酒に関するConsumer Reportsのような雑誌があれば、製造・販売者も消費者も便利だが、そのような雑誌は存在しない。dancyuの特集のようなものは存在するが、選択の基準が明確でないし、透明性も不明だ。
このような環境の中で、日本酒の会の参加者による評価・公表は、大袈裟に言えば機能としてはConsumer Reportsと同じなのである。
特定の蔵・酒屋と全く関係の無い一般消費者により行われる厳密なブラインド評価結果である。
あるテーブルの参加者たちは、評価の条件を同じにするために、利き酒が終わるまで料理に手をつけない。食べることにより利き酒が影響されることを防ぐためだ。それくらい真剣に酒に向き合い厳格に禁欲的に利いて評価している。それは日本酒への愛からである。
だから全体の評価結果は、全国の酒好きの消費者の参考になるし、心ある道理の判った蔵元・杜氏にも参考になる、本当は金を出しても手に入れたいデータがフリーで手に入るのである。
参加者全員の評価を公表することは、蔵元・杜氏に失礼でも何でも無く有益なことなのだ。
有価証券市場では、価格操作の目的で悪意を持って人を騙す目的で噂を流すことがあるが、これは法律で禁じられている。いわゆる風説の流布である。
日本酒の愛好者が、どのように評価したかを公表したからと言って、それは悪評ではない。愛による評価なのだ。その結果を公表したからと言って、名誉毀損・損害賠償の訴訟が成り立つはずもない。
2.【嗜好の自覚】
伝聞では、その蔵の関係者は、判りもしない素人が酒を評価して何が解るのかと言ったそうだ。
本当の話かどうか分からないが本当だとすれば視野の狭い人だ。
ブラインド評価の持つ事実は大きな意味を持つ。全体評価と自分の評価との間を行ったり来たりすることにより、酒だけでは無く自分と言う厄介な妄念を客観的に見て、公と私を自覚することも出来る。
己を知ることは、社会生活でも宗教でも株式投資でも世の中の多くのことで必要とされることだ。
ブラインド評価をしている時は、全く情報がない。自分が好きな酒に高得点を与えようにも、それが入っているかどうかも入っていても何番なのかも判らないので、高得点を与えようがない。
すべてが終わり公表されたとき、自分が1位にした酒が愛知・岐阜の酒だったりすると嬉しいものだし、もし全体評価でも1位だったりすると我事のように嬉しく感じるものだ。
逆に、好きな銘柄なのに、ブラインド評価のために下位にランクづけしてしまい、そうした自分に驚くこともある。
全体評価と自分の個人的評価とを見比べると、大変勉強になる。
自分の嗜好とは一体何なのか、それを知ることができるのだ。
好き嫌いは子どもでも解るが、自覚することは難しい。
会に出て、同好の士と話をしたり、全体の評価結果と自分の評価結果を比較検討すると、自分の嗜好・好みがあぶり出されてくる。
嗜好は十人十色、蓼食う虫も好き好きだが、それだけでは自分の嗜好はわからないままだ。
会に出て様々な銘酒を飲み、人の意見を訊き、全体評価と個人の結果を謙虚に見比べるときに自分が自覚できる。
日本酒の会は、日本酒を愛する人の勉強の場であり、ブラインド評価をして、他の評価と比べてみるとき大きな収穫が得られる。
愛することは誰でも出来る。しかし他人の目の評価で検証することによって、自分の好きな日本酒への愛が自覚できる。
この意味でブラインド評価と公表は、個人の自覚の鍵と言える。
次に2番目の問題。
「2.参加者が評価を強制させられている。」
この問題は、誤解に基づいている。
参加者も人それぞれであり、色々な考えで参加される。
以前こんなこともあったようだ。
3000円で酒10銘柄と料理が楽しめるのであれば、グループで参加し、宴会をしょうというものだ。
50名の参加者の中であるグループだけが宴会状態になることは出来ない。
それは、この会の目指すところを誤解している。
勿論、ブラインド評価が終われば、目隠しを外して、酒を改めて飲むのだから全体が宴会状態になる。
だが、個人のブラインド評価をするのがこの会の特色なのだ。
ブラインドの目的は、明示されていないが、各人が酒を愛を持って評価し、参加者全体の評価と比べ自分というものを知り、自分と言う妄念を離れて、それぞれの酒の公的な評価を知ることだ。それが自覚というものだ。
この会の参加者は、ある種のリゴリズムを要求される。
目の前に出された肴を横目で睨みながら、ひと通り評価するまでは、公平さの観点から自己を抑制して手をつけない人も参加しているのである。
勿論、食べながら利いても良いし、そうしている人も多いだろう。どちらにせよと強制されるものではない。
だが、個人のブラインドの評価はしなければならないのである。
ある酒を評価するということは、その酒に対する愛と責任が必要だ。だがそれは誰から強制されるものではない。そこにリゴリズムが存在する。
酒は楽しく飲むことは論を待たない。気を許した酒友との語らいの宴は楽しい。
このような宴の機会・場所は数多くある。探せば苦労なく見つけられるはずだ。
楽しいだけで良いのなら、そのような宴に参加されれば良いのだ。
この会は、ブラインド評価という方法によって、日本酒への理解と愛と自分を自覚する場所なのだ。
2011年も、ブラインドが外された時の驚きと全体評価を聞かされた時の自覚とを楽しみに日本酒への愛を語り合うために、この会に参加するつもりだ。