奈良に行く事になった為、近くの酒蔵を調べたところ、春鹿の今西清兵衛商店の蔵開放が予定されているのがわかった。
『代々、今西家は春日大社の神官として神々に供える酒を醸していらっしゃいましたが、明治政府発令の神佛分離令によりやむなく辞職し、日本酒発祥の地で明治17年より酒造業を始められました。
酒名の由来は、春日大社に仕えていたことと、春日の神々が鹿に乗ってやってきたという伝説から、「春日神鹿」(かすがしんろく)と名付け、後に「春鹿」(はるしか)に改め、今日に至っています。
現在も春日大社『春日祭』に、供御(くご)される白貴(しろき)は春日大社の酒蔵『酒殿』に出張し、ご奉仕されておられます。』(今西屋HPより転載)
シルバーウイークの初日である。
早目に8時に出たつもりだったが、養老SAを抜けるのに2時間以上もかかった。先が思いやられたが、所々渋滞があったが、最初の大渋滞を思えば、順調に車は走った。
問題は、最後に待ちかまえていた。
奈良の市内に入ってから、まったく車が動かない。
1km進むのに1時間以上かかる。時速1kmである。
結局酒蔵に着いたのは、7時間半後の15:30。
蔵開放の終了時間16:00までに30分しかない。
以下は、そんな蔵開放の記事である。
最初に春鹿を飲んだ記憶は、2008年の名門酒会で「春鹿 純米大吟醸 槽しずく」である。この時の印象が良かった。


正面入り口には、南都諸白春鹿醸造元の看板が掲げられている。
『南都諸白(なんともろはく)とは、平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称。
具体的には菩提山正暦寺が産した『菩提泉(ぼだいせん)』を筆頭として、『山樽(やまだる)』『大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)』などが有名である。
まだ大規模な酒造器具も開発されておらず、台所用品に毛の生えた程度の器具しかなかったと思われるこの時代に、菩提?、煮?など高度な知識の集積にもとづいて、かなりの手間を掛け、精緻に洗練された技術で製造していたと思われる。僧坊酒全盛の時代が終わってからも、奈良流の造り酒屋がその製法を引き継ぎ、江戸時代に入ってからもこのブランドで下り酒などの販路に乗せていた。』(Wikipedia)
『諸白(もろはく) とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。
または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。
一方、麹米は玄米のままで、掛け米(蒸米)だけに精白米を用いる製法、またはその製法で造られた酒のことを片白(かたはく)という。麹米、掛け米ともに精白しなければ並酒(なみざけ)と呼ばれた。
その起源は、平安時代に奈良の大寺院で製造されていた僧坊酒で、その造り方の流れを継ぐ奈良の酒屋の『南都諸白(なんともろはく)』は、まるで今日の純米大吟醸酒のように、もっとも高級な清酒の呼び名として長らく名声をほしいままにした。
やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した『○○諸白』なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。
「諸白」という語は、日本へキリスト教布教にやってきたイエズス会宣教師たちが編纂した日葡辞書(1603年)に収められ、語義は「日本で珍重される酒で、奈良でつくられるもの」とされている。諸白という製法にまでは触れられていない。なお、この項目はポルトガル語からさらにスペイン語に翻訳された。
江戸時代は、昭和時代に存在した法制化した日本酒級別制度はないが、いちおう消費者の目安として、
上級 <(御膳酒 -) 諸白 - 片白 - 並酒 > 下級
といった商品ランク意識があったことには疑いを容れない。
諸白の技術の発達は、とうぜん精米技術と密接な関わりを持つ。江戸時代初期までは、精米は臼(うす)と杵(きね)、せいぜい足踏み式の唐臼(からうす)で行なっていたので、吟醸酒などを造り出す今日の精米歩合から比べればはるかに低かった。
しかし江戸時代後期、灘において水車を使う大規模で高度な精米技術が生まれ、そのため灘は産する酒の質においても先発であった伊丹や池田を凌駕するに至った。』(Wikipedia)
当たり前のことだが、日本酒の源も日本文化の源も奈良なのである。

蔵祭りの会場は、左の広い駐車場と思われる場所が入り口である。
屋台が、飲食物を販売している。内容は、おでんとかフランクフルトとか一般的な物。

入り口すぐの処に、試飲処がある。
時間帯により、酒が変わるようだが、終了時刻間際の今は、「鹿吟醸」。
香りは高く立ち、入り口の甘さの後フルーティーな酸が押してくるメリハリの効いた酒である。

中の販売所では、酒各種が販売されている。

外の屋台で食べ物を買い、ここで好みの日本酒を買い、プラケースを積んだテーブルで楽しむのが流儀らしい。
終了時間が近かったが、まだお客がかなり残っている。

会場内には、和らぎ水を汲む場が設けられていた。
仕込み水は井戸水ではなく水道水を処理した物らしいので、和らぎ水も同様なのだろう。
時間に追われながら蔵見学のコースを流して見た。

精米は直精米。
写真は連続蒸米機である。
かなり機械化を進めている蔵である。

甑もある。
吟醸酒以上の上級酒の小仕込みに使用しているとのことだった。

浸漬タンク。

醸造の工程が、図入りで解り易く表示されている。

醸造タンクの上に作業用のフロアーがある。

ヤブタ式の搾り機は大型のもの。

槽も2機設置されていた。
上級酒はこちらで搾るとの話であった。
蔵の隣には今西家書院があるが、拝観時間が終了して、建物に入れなかったのは残念だった。

『 今西家書院は永く興福寺大乗院家の坊官を努められた福智院氏の居宅を大正十三年に今西家が譲り受けました。一説には大乗院の御殿を賜わり移建したとも伝えられています。昭和十二年八月二十五日、京都の二条陣屋、大阪の吉村邸と共に民間所有の建造物として初めて国宝の指定を受けました。
江戸時代に一部改造が行われていると理由で戦後、重要文化財となりましたが、銀閣寺の東求堂と同じく室町中期の書院造りの最も古い遺構を残しているといわれています。昭和十三年には柱全部に根継ぎを施し、北側庇及び屋根の葺替えが行われました。昭和五十三年九月から五十五年四月まで大規模な解体修理を行い、現在に至っています。
書院造りは上段・中段・下段と部屋に段差が設けられ、柱の面取りが室町時代の特色をあらわしています。』(春鹿HP より転載)。

時間が無く、予定通りの蔵見学にはならなかったが、春鹿が醸される場を見ることが出来た事で良しとしよう。
今年の名門酒会での再会が楽しみである。
、
農家必携下 では
味よし 其姓もよき物奈り 菜塞の端に作るべし
です。