雨の京都に着いた。
本当は秋晴れがよいのだが、雨の京都も風情がある。
京都駅烏丸口から地下鉄で東山南禅寺方面に向かう。
途中乗り換え、蹴上駅で降りる頃には、京都に着いてから40分近く経っていた。名古屋から新幹線で京都まで40分だが、新幹線が速すぎるのだろう。
地下鉄の階段を上がると前は幹線道路で交通量が多い。観光客らしき人達が右に行くので、大勢に従うことにした。
少し歩くと煉瓦造りの門があり、其処をくぐっていくと近道らしく、皆入っていく、矢張り大勢に従う。
門を入ると幹線道路の騒がしさとは一転して、閑静な住宅地。と言っても、高級住宅地の趣。
少し歩くと、金地院がある。白い壁に沿って高さ50cmくらいの自然石がアスファルト道路の壁際に立っている。
最初意味が分からなかったが、車止めとすぐに気がついた。流石に京都である金属製のポールとか白いガードレールとか造らずに、自然石をコンクリートで固めている。白壁の前に並んだ、大きさも形も不揃いの自然石を見ていると、枯山水の様に見えるから不思議だ。
南禅寺への参道は紅葉が始まっている。南禅寺へ紅葉を狩に行く人たちは、傘を差して歩いている。時々大型バスが大勢の観光客を乗せて通り抜けていく。
今日の第一の目的、「英の刻」の会場「京料理 菊水」はすぐに判った。大きな看板が参道に面して設けられている。これならば迷うことはない。

会が始まるまでに一時間程あるので南禅寺に行くことにして、先に進むと南禅寺は道路が曲がった先にあった。
入り口から入ると境内は、観光客で一杯である。雨の南禅寺でもこの人出である、晴れの紅葉の名所の雑踏振りが想像される。
所々紅くなり始めた枝先を見ながら、先に進むと大きな山門が見える。
南禅寺では山門と書かずに三門と書いている。
立派な建物である。

門の扉、金具、巨木を用いた柱、礎石の石、どれを見ても存在感が迫ってくる。耐用年数から計算された物ではない本物の建造物の存在感に満ちている。

『三門
三門歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がこれである。ただしそれは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。
天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。』(Wikipedia)

三門の周りの楓はまだ黄葉である。降り落ちてくる雨が早く紅くなれと急き立てている。
南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山である。禅の修行の総本山であり、観光名所とは違った性格の寺である。
『南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇る。また皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。
歴史
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)[1]に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身である。
亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(剃髪して仏門に入る)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。
無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾(えんに)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。
開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師、1261 - 1313)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために[2]南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけた。
室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出している。
明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失してたがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)、応仁の乱の市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。
南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗寺院の元締めにあたる役職である。
なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。』(Wikipedia)

紅葉ではないが、黄葉も歴史のある建物を背景にして美しく映えている。
会の時間が近づいたので、引き返し菊水に向かう。
齊籐酒造「英の刻」については<その2>に記載する。
宴が終わり、南禅寺に戻り、紅葉を尋ねることにした。

まだ枝先の方であるが、紅葉も一部始まっている。
時間があるので、方丈を参観した。

如心庭の枯山水。
襖絵は狩野派の絵画がそのまま設置されているが、保存の観点から見ると心配だ。模写をはめて本物は管理保存した方が良い様に思えた。


室内から見える楓が鮮やかに紅葉していた。
南禅寺から出て、哲学の径と言われる道を永観堂に向かう。
径は行く人来る人に溢れている。
永観堂は紅葉の名所であるが、紅葉にはまだ早かった。
秋の特別公開期間であり、秘蔵の品も公開されている。

『禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
歴史
空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(ようかん、1033年 - 1111年)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士(もんじょうはかせ)源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
禅林寺12世の僧都・静遍(じょうへん、1166年 - 1224年)は、当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し、念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。證空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の寺院となり、揺るぎのない念仏道場とされた。』(Wikipedia)

名所も紅葉が始まっていないので、想像するのみである。

此処でも石蕗が咲いている、間もなく紅葉に役割を交代する。

珍しく、一枝のみ紅葉していた。
帰りは蹴上まで帰らずに永観堂近くの停留所からバスに乗ることにした。
京都のバスの運転手は大変である。道路が混雑する上に、各停留所事に観光客の群れが乗降する。乗ってくる客には、入り口に立たず中に詰める様に、降りる時では出発が遅くなるので両替、質問は予め動いている時にと指導し、バス停が近くなるとここからは地下鉄に乗り換えた方が早いとか、繁華街のバス停では次のバスがすぐ来ますと行って乗客を制限するとか、兎に角運転しながら喋りっぱなし、気を抜くことは一切出来ない。
京都のバスの運転手は怖いと聞いたことがあるが、これでは、やむを得ないとバスの運転手に同情しているうちに京都駅に着いた。
新幹線に乗り込み、「英の刻」に触発されて日本酒と日本文化について思いを巡らしていると、もう名古屋に着いてしまった。
新幹線の時間は思うことすらままならない。
ともあれ、記憶に残る一日であった。
「虫さんたちを呼ぶため」
甘い蜜を虫に提供して「花粉を運んでもらいたい」のです。
自ら繁殖活動をとれない植物たちは、生き残るための知恵を
花びらを鮮やかにすることによって表現しています。
では、
木々の紅葉は、誰を呼んでいるのでしょう?
小鳥たちに与える実は、すでに落ちています。
なのに、落葉を前にして色鮮やかに自己主張しています。
「紅葉は誰のため?」
そんな私の疑問に答えてくれる人はいません。
私は思うのです。
「紅葉」は「人間を呼んでいる」のではないでしょうか?
日本の森は、人の手が必要なのです。
人間が木々の枝を落としたり、間伐したり、下草を刈ることによって
日本の森は、生きることができているのです。
森が荒廃したら
光が入らずに、木々は痛みます。
草がまん延した地面では、雨を大地に浸透させることができません。
植物たちの成長が不健全な方向へと陥ってしまいます。
動物たちは食べ物を失って、人間が住む街へと下りて来ざるをえません。
様々な生命を育む『森』は、『健全でいたい』のです。
そのためには、どうしても人間の手が必要なのです。
山々の紅葉は、「人間にみてもらいたい!」
人間に手を入れてもらいたくて
その彩りを鮮やかにしているのではないでしょうか?
紅葉は
私たちを呼んでいるのです
そう思いませんか?