「ゴンドラの唄」といってもピンと来ないが、「生きる」で志村喬が雪の中で、完成したばかりのブランコに乗り口ずさんだ唄、“命短し 恋せよ乙女”と言えば、大方の人は、ああ、あの唄と言うことになる。
「ゴンドラの唄」
作詞 吉井 勇 作曲 中山晋平
(1).命短し 恋せよ乙女
紅き唇 褪せぬ間に
赤き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の 無ひものを
(2).命短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて かの舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
此処には誰も 来ぬものを
(3).命短し 恋せよ乙女
波に漂ふ 舟のように
君が柔手を わが肩に
此処には人目の なひものを
(4).命短し 恋せよ乙女
黒髪のいろ 褪せぬ間に
心の炎 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
大正4年に歌われた唄なので、歌詞が古くもう一つ馴染めないものがあったが、先日、映画「生きる」を観て、漸く心に響くようになった。
この唄のテーマは、今を生きる情熱だろう。
特に若い日を無為に過ごしてはいけない。
それだけで美しい若い時を、明日があると考えて今を過ごしてはいけない。時は二度と帰らない、特に美しい若い時は。
映画の主人公は老人だが、問題の構造は老若は関係ない。
問題は、今に全力を尽くすかどうかだ。
だからといって、将来を考えず刹那的・享楽的にと言うことではない。
今は、常に流れ去る。
次の瞬間には「今の未来」が今である。
生き続けて、全力尽くしていけば、今を生きると同時に、未来に生きることになる。
「ゴンドラの唄」を流行らせた松井須磨子は情熱の女(ひと)であったらしい。

松井須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日 - 1919年1月5日)
1902年に長野県松代から上京。
1903年初婚、1年で離婚。
1908年俳優座養成所の前澤と再婚。
1909年坪内逍遙の劇団「文芸協会」の俳優養成所に入る。前澤と離婚。
1911年初公演『ハムレット』のオフィーリアで認められ続いて『人形の家』のノラを演じ認められ、劇団のスターとなる。
情熱の女須磨子は、妻子ある師・島村抱月と恋愛関係に入ったことで、世の非難を浴び、文芸協会から追放される。
1913年同様に早大を退職した抱月とともに、劇団「芸術座」を旗揚げした。
以後、毎公演主役を演じ、それらの公演では、須磨子が劇中歌を歌うのが特色であった。
『復活』で歌われた『カチューシャ』 (カチューシャ可愛や、別れのつらさ……の歌)や、『その前夜』の『ゴンドラの唄』は、大評判になり、須磨子は日本初の歌う女優となった
1918年島村が病死すると、急逝した抱月のあとを追い、『カルメン』公演中に、芸術座の道具部屋において自殺(縊死)した。
新しい女須磨子の一生は、波乱に満ちているが、「ゴンドラの唄」を歌ってみると、その人生もまた良しと思える。
『ゴンドラの唄』の作詞者は、明星派の歌人として出発し、石川啄木などとともに、文芸誌『スバル』の創刊に当たった吉井勇である。
吉井勇は、幕末の志士後の伯爵吉井友実(よしい ともざね、1828年(文政11年)2月 - 1891年(明治24年)4月22日)の孫である。
『吉井友実は、西郷隆盛、大久保利通、税所篤らとは幼少期からの親友である。
島津斉彬の死後、大久保ら同志40名と共に脱藩を企てたが、斉彬の後を継いだ島津忠義の慰留をうけて大目付役に就任。精忠組の中心人物として藩政をリードした。1864年(元治元年)には、沖永良部島に流されていた西郷の復帰を嘆願し、自ら召還使ともなった。禁門の変や戊辰戦争など、薩摩藩による討幕運動を推進した。
維新後は、参与・民部少輔・大蔵少輔・工部大輔・元老院議官・枢密顧問官・宮内次官、また日本鉄道社長などの要職を歴任した。1884年(明治17年)、維新の功により伯爵に叙せられる。1891年(明治24年)、64歳で死去。
継嗣は幸蔵。幸蔵は海軍少佐、貴族院議員を務める。娘・沢子は大山巌夫人。歌人・脚本家の吉井勇は孫。
<エピソード>
王政復古の章典で西郷に位階を授けられる際、西郷の諱を忘れてしまい、誤って西郷の父吉兵衛の諱である隆盛で届け出てしまった。西郷は元服時には隆永、のち武雄と改めていたが、この一件以降、隆盛と名乗っている。因みに、西郷の「逆賊」の汚名が晴れていない時期に同郷の伊地知正治・岩下方平や征韓論争で西郷とともに参議を辞任した副島種臣とともに西郷の命日に極秘で祭礼を行い、またその遺児を明治天皇に拝謁させることに尽力した。なお、上野の西郷像創設の発起人を務めているのも吉井である。
坂本龍馬が寺田屋襲撃によって負傷した際、薩摩藩に匿われて療養場所を京都藩邸へ移動されたが、その際護衛の指揮にあたっている。その後、坂本の薩摩における新婚旅行では自邸を旅行の宿舎として提供している。これにより、感謝の意として坂本から「来国光」の短刀を贈られている。』(Wikipedia)
吉井勇は、1908年早稲田大学入学。
後、北原白秋、木下杢太郎、森鴎外、石川啄木と交わる。
坪内逍遙に認められ、脚本家として名声を博した。
『戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年、四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。
「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられ、1954年、桂文楽(8代)が芸術祭賞を受賞した時の言葉とされる。
1960年、肺ガンのため京都で死去。馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたと谷崎が伝えた。
京都市東山区の祇園・白川沿いには勇が古希を迎えた1955年11月8日(実際の誕生日からは一月遅れ)に「かにかくに・・・」の歌碑が建てられていて、毎年この日には祇園甲部の芸舞妓が歌碑に白菊を手向けて勇をしのぶ「かにかくに祭」が今日でも行われている。また、高知県香美市香北町に吉井勇記念館があるほか、蔵書や遺品の一部は京都府立総合資料館にも収められている。
<家族>
最初の妻徳子は、歌人柳原白蓮の兄でもある伯爵柳原義光の次女。1921年(大正10年)に結婚し、滋(しげる)を得た。 しかし徳子が1933年(昭和8年)に起こしたスキャンダル、いわゆる不良華族事件の中心人物であることが発覚。事件後に妻と離別して隠居し、爵位を長男に譲り高知県香美郡に隠棲生活をした。
1937年(昭和12年)、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持ち、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。翌年、二人で京都へ移った。
最晩年に勇は「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」(「私の履歴書」)と書いている。』(Wikipedia)
吉井勇は、小説家・詩人・歌人・俳人・作家・随筆家として多方面に活躍したが、矢張り歌人である。
歌会始選者の地位も、祖父の七光りではなく、本人の歌も名歌が多い。
「音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は来にけり」
「人の世にふたたびあらわぬわかき日の宴のあとを秋の風ふく」
「夏は来ぬ相模の海の南風にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ」
「子供等と鞠つき遊びたはむれし良寛思(も)へばわれは寂しゑ」
「手にならす天つ乙女の扇かとみれば涼しき月の下風」
「酒の香に染みし心もよみがへるながきわかれの君と思へば」
「ゴンドラの唄」の須磨子も吉井勇も転変のある生涯を送っている。また、吉井の最初の妻、柳原伯爵の次女徳子も徳子の叔母の柳原白蓮も恋多き女としてゴンドラの唄そのままに生きている。
この人達の人生は、意図して波乱があったのではなく、今を自分に忠実に生きたためにそのような経過を辿ったものであろう。
「命短し 恋せよ乙女」である。
「ゴンドラの唄」は、志村喬では無く、初音ミクという”人”のものが、youtubeで聞く事が出来る。
http://www.youtube.com/watch?v=0xsqJnZcyi8
毎日確実に投稿しておられるので、頭が下がります。