
(「RKK開局50周年記念特別企画「天領・天草 鈴木重成公没後350年YEAR」より転載」
鈴木三郎九郎重成は徳川初期の直参旗本である。あまり一般的に知られてはいないと思われるが、ローカルには有名な人いや神様である。
愛知県三河の足助もしくは九州天草地区では有名である。
天草では鈴木神社が建立され神様として祭られている。
兄の鈴木正三(しょうさん)は京都の諸山・永平寺に拠らず民衆を教化した禅師として著名である。正三については改めてカテゴリーを用意して述べる予定だが、兄弟相応じた生涯である。
鈴木重成の生死については、下記の記述を読んでいただきたい。
『戦国時代の1566年、修道士アルメイダが天草五人衆の一人志岐麟泉(下島・志岐城主)に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ、ヴィレイラ、トルレス、オルガンチノらも来島し、1568年、1570年には宗教会議も行われた。信仰は広まり、信者は15,000人、教会堂は30あまりにも達したという。豊臣政権の下で天草はキリシタン大名小西行長の領地となり、キリシタンはその保護を受けることになった。
1591年、宣教師養成のためのコレジオ(学林)が設置され、全寮制の集団教育がなされた。天正遣欧少年使節の4人もここで学んでいる。少年使節は日本にグーテンベルグ式活版印刷機を持ち帰ったが、天草ではこれを用いて「伊曽保物語」(イソップ物語)「平家物語」「羅葡日対訳辞典」などの「天草版」と呼ばれる印刷物が製作された。
関ヶ原の戦いの後、敗れた小西行長は斬首され、天草は唐津藩の飛び地となる。領主寺沢氏は富岡城(苓北町)を築いて城代を置き、検地を行い天草の石高を4万2千石としたが、これは実際の生産高の倍にあたり、過酷な税の取り立てとキリシタンの弾圧が行われた。さらに飢饉が続いたことも要因となって、1637年、島原・天草の乱が勃発した。
乱後、山崎家治が4万2千石で入封し(富岡藩)、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに当たった。1641年、家治はその功績により讃岐丸亀藩5万3千石に加増移封され、天草は天領となった。代官鈴木重成は天草の復興に努める一方、再検地の結果に基づき石高を実収に見合うよう半減すべきと幕府に訴えた。しかし、再三の訴えも聞き入れられなかったため、重成は上表文を残して自刃したという。この主張は1659年になって認められ、天草の表高は2万1千石となった。天草の本渡には重成を祀る鈴木神社が建立され、名代官として今も人々に慕われている。』
『鈴木 重成(すずき・しげなり 天正16年(1588年) - 承応2年10月15日(1653年12月4日))は、江戸時代初期の幕臣・天草代官。鈴木重次の三男。禅僧で仮名草子作者の鈴木正三は兄。三郎九郎を称する。
徳川家康・秀忠に仕え、大坂の役にも従軍。元和6年(1620年)、仏門を志した兄・正三に家督を譲られ、700石を知行する。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では追討使・松平信綱に従って戦地入りし、原城攻撃に参加。一番乗りの武功を顕彰されている。戦後の寛永18年(1641年)、天領となった天草の代官に任じられる。
当時の天草は、この地を支配していた唐津藩主の寺沢広高・堅高2代にわたって為された過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた。重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行。また、踏絵を執行する傍らで兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めたり、彼の手による「破切支丹」を刊行したりと硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。
しかし、それでも天草の経済的復興には限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議。再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかったため、ついに承応2年(1653年)、訴状を残して江戸の自邸で自刃を遂げた。
この抗議自殺に驚いた幕府は慌てて減免を前向きに検討し、遂に実現した。このために、天草の郡内には重成を祀った鈴木神社が建立され、名代官として長く追慕される存在となった。』(Wikipedia)』
武士というものの有り様、生き様、死に様について感じさせる人物である。
武士と言っても人間である。破廉恥なものも、立身出世、金、物欲に目の眩んだものも多いだろう。江戸の平時の武士は官僚であるから寧ろこのような武士の方が多かったかも知れない。
武士の本分、本懐と言ったものを考える時、己の役儀のためには身命を賭する覚悟が必要である。武士にとっては、自分の生命より大事なものが存在するのである。
第2次大戦後、個人主義とヒューマニズムによって、個人の命が最も大切な価値とされた。自分の命が一番大切なのだからそれを第一に考えなければならないと教えられてきたし、大多数の人はそう思っている。命は軽々しいものではない事は確かだが、それですべてであろうか?
老いて、病気になって、病院で家族に看取られながら死んでいく末期、これが大多数の望まれる終着点なのだろうか。
最近こんな事件があった。
『バス車内で携帯注意され、男性を死なす 三重
3月29日2時7分配信 毎日新聞
路線バスの車内で携帯電話を使い注意されたことに腹を立て、注意した男性に暴行して死なせたとして、三重県警松阪署は同県大台町佐原、無職、中田義一容疑者(58)を暴行容疑で逮捕し、28日に傷害致死容疑で津地検に送検した。
調べによると、中田容疑者は26日午後4時40分ごろ、同県松阪市春日町の競輪場から松阪駅に向かう路線バス車内で、携帯電話を使用したことを注意した同県四日市市小杉町、鈴木護さん(61)の胸ぐらをつかんだり座席に押し付けたりした疑い。約30人の乗客がいたが、誰も助けに入るなどしなかったという。』
30人の乗客が居たが誰ひとり助けようとはしなかった。
昨年発生した特急列車の強姦事件も乗客は女性が助けを求めているのに知らぬ振りをしていた。
このバスの乗客は全員目が見えなかったのだろうか?
全員耳が聞こえなかったのだろうか?
どうして知らぬ振りが出来たのだろうか?
どうして知らぬ振りをしたのであろうか?
乗客を評論家的に論じてもはじまらない。
問題は自分が居合わせたらどうするということだ。
自分を賭けて介入するか知らぬかををするか。
それは社会の問題であるというと問題の本質を見失う。
それは個人の生き様・死に様の覚悟の問題である。
自分の命より大切なものはないと思うか、「命ぼうにふろう」と思うか。
予め決めておかねばならない。
それは自分の覚悟の問題である。
天草の鈴木神社にはまだ詣でたことはない。
長い休みが取れる時に、一度お参りしたいと思う。
美しい日本人に両手を合わせたい。
【参考サイト】
1. 「RKK開局50周年記念特別企画「天領・天草 鈴木重成公没後350年YEAR」」
http://www.rkk.co.jp/start/shigenari/history/story08.html
2.天草探検 鈴木重成
http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/suzukisigenari.htm
フットワークが軽いですね。
私も31日にオムライスを食べに出掛けておりました。
奇遇です。
今回は、逆向きから看板を撮りました。
確認しましたら、今回も、看板の下の方は写っておりませんでした