
「その時歴史が動いた 日中国交正常化」を昨晩見た。
今年は日中国交正常化35周年に当たるそうだが、30年も立つと歴史の評価が定まってくる事が解る、そのような感慨を持たせる番組であった。
田中角栄は常に光と影の存在である。
光は、政策立案能力、構想力、実行力、コンピューター付ブルドーザー、庶民宰相、今太閤、そして日中国交回復である。
影は、金権政治、数の政治、派閥政治、闇将軍、ロッキード汚職etc
政治評論家の三宅がTVで良く発言する。「仕事も出来るが、悪いこともする政治家と悪いことはしないが仕事も出来ない政治家とどっちが良いか?」と。
勿論、田中角栄は前者である。
佐藤栄作退陣の後を受けて、優勢を伝えられた福田を多数派工作で形勢逆転し首相になった田中は直ちに日中国交正常化のために中国に飛んだ。
2日目の交渉は暗礁に乗り上げた。田中の「迷惑をかけた」という挨拶が、中国の怒りを呼んだ。あの大人の周恩来の目が怒気を含んでいる珍しい写真を見た。田中は、慌てず誠意を持って切り返した。
周恩来の言葉
「ご迷惑とは、中国では道ばたでうっかり女性のスカートに水をかけたときにわびる言葉でしかありません。それをあなたは、日中間の不幸な過去の説明に使ったのです。」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より。
田中角栄の言葉
「日本語で迷惑をかけたとは、万感の思いを込めてお詫びをするときにも使うのです。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。」
人間田中の存在感である。
下の番組紹介では書かれていないが、田中の存在感を示すエピソードが番組に見える。
①日中の事務方の打ち合わせが行き詰まり、大平を代表とする事務方が憔悴・消沈して宿舎に帰ってきたとき、迎えに出た田中角栄は明るくこういったそうだ。
「こういう修羅場では、大学出は駄目だな~」
また、どうするか聞かれて
「これからどうしたら一番良いか、どういう案にするか、それを考えるのが大学出だ」。
②突然、周恩来が田中を引っ張り出してある場所に向かった。そこに待っていたのは毛沢東であった。
日本を背負う責任者として毛沢東と会談した田中は宿舎に帰ってから、随行の女性医師を呼んだ。
鼻血を出したのである。血圧が振り切れるほどの緊張の中、明るく振る舞っていたのである。
女医に、鼻血のことは言っちゃいかんと3回繰り返し、口止めしたそうである。
③調印式が済んだ後、祝賀会の席で、
周恩来が正統的に
「これで日中間の新しい1ページが始まりましたね」
と発言した後、
田中角栄は、手にした盃(老酒?)を口に付けるのではなく、一息にぐいと飲み干し、周囲を見回して、こう言った。
「今日はもうこれで会議がないから大いに飲もう!」
周囲の中国の要人達も、思わずどっと笑いの渦に包まれた。
人間田中の存在感である。
独自外交でアメリカの怒りを買った田中は、ロッキード事件で引きずり下ろされ、裁判で有罪、脳梗塞で倒れるという茨の道を歩む。
国交正常化後20年の平成4年総書記であった江沢民が目白の田中邸を訪問し、中国へ招待する。
中国側の言葉
「田中先生は国交正常化に最も貢献した方。中国は永遠に忘れない」
病気の後遺症で半身不随、言語不自由な田中は色紙に自分の気持ちを書き、田中真紀子に代読させる。
「首相当時の決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れた。私はこの20年間片時も目を離さず、日中関係を見つめてきたものである」
「大夫 棺を蓋いて事始めて定まる」(杜甫)
田中の歴史的評価も定まりつつあるようである。
【データ】 NHK オンライン番組紹介より転載
『その時歴史が動いた第300回 日中国交正常化
放送日
(本放送) 平成19年9月26日 (水)
22:00022:43 総合 全国
(再放送) 平成19年10月1日(月)
16:05016:48 総合 全国(北海道地方のぞく)
平成19年10月12日(金)
2:3503:18(木曜深夜) 総合 全国
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
キャスター 松平定知(まつだいら・さだとも)アナウンサー
スタジオゲスト 石井 明(いしい・あきら)さん
(東京大学名誉教授 専門は国際政治学)
インタビュー出演 橋本 恕(はしもと・ひろし)さん
(外務省中国課長(当時)、元駐中大使)
栗山尚一(くりやま・たかかず)さん
(外務省条約局長(当時)、元外務省事務次官、元駐米大使)
下條ゑみ(しもじょう・えみ)さん
(訪中団随行医師、宗仁会病院院長)
番組概要
その時: 昭和47(1972)年9月29日
出来事: 日中共同声明に調印
昭和47年9月25日、ときの総理大臣・田中角栄が北京を訪れた。戦後日本外交の一大課題、中華人民共和国との国交正常化のためだ。悲願の達成を間近に控え、メディアは交渉の順調ぶりを伝えていた。
しかし実際の外交交渉の現場は紛糾していた。日本の戦争責任についての謝罪をどう表現するのか?日本は、中国が認めない台湾との関係をどう清算するのか?4日間を予定した交渉は2日目ですでに暗礁に乗り上げていた。そして最大の争点は「日中戦争はいつ終わったのか」という問題に絞られていく。台湾と日華平和条約を結んだ昭和27年に日中戦争は終わったと主張する日本。しかし、中華人民共和国側は、日華平和条約は無効であり、日中戦争は今回の共同声明の公表の日に終了すると主張。両国の主張は平行線をたどった。それがなぜ、残り2日の話し合いで合意にたどりつくことができたのか。
息詰まる外交交渉の裏側を、当時の関係者の証言を軸に、日中双方の豊富な記録を交えて描く。
番組の内容について
その時歴史が動いた「放送300回」について
2000年の放送開始以来、再放送等をのぞく放送の回数が、今回で300回を迎えました。
番組の構成について
両国の交渉の内容については、外務省に保管されている「日中国交正常化交渉記録」をベースに構成しています。
それ以前の国内での田中の動勢については、田中角栄の秘書の回顧録や、田中の中国政策のブレーンとして動いた、外務省中国課長(当時)の橋本恕氏をはじめとする、当時の外務省職員への直接の取材を元に構成しています。
登場人物の言葉
田中角栄の言葉
「今回の訪中を是非とも成功させ、国交正常化を実現したい」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より。
周恩来の言葉
「日中両国には様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より。
なお、日本では「小異を捨てて大同につく」というが、中国語では「小異を残して大同につく」というのが自然な表現であり、交渉の場でも周恩来がそのように発言したことは中国側関係者の複数名が証言している。
(「記録と考証 日中国交正常化」岩波書店より)
高島条約局長の言葉
「日中戦争の講和や賠償の問題は日華平和条約で終わっている。今回は日中の外交関係樹立によって生じる将来の問題について話し合いたい」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より、一部意訳。
周恩来の言葉
「ご迷惑とは、中国では道ばたでうっかり女性のスカートに水をかけたときにわびる言葉でしかありません。それをあなたは、日中間の不幸な過去の説明に使ったのです。」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より。
田中角栄の言葉
「日本語で迷惑をかけたとは、万感の思いを込めてお詫びをするときにも使うのです。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。」
「姫鵬飛回顧録」より。
また、中国外交部档案館にある中国側の公式記録「日中国交正常化交渉記録」にも同様の記述が残っていることが矢吹晋「激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実」(日経BP社)にも記述されている。
周恩来の言葉
「日本と台湾が条約を結んだ昭和27年には、台湾の国民政府は大陸から逃げ出していた。彼らが全中国を代表して戦争を終わらせたなど、とんでもない話だ。」
日本外務省「日中国交正常化交渉記録」より。
大平正芳の言葉
「日中両国のこれまでの関係は『不自然な状態』と表現できないだろうか」
今回の番組での橋本恕中国課長への取材、並びに「記録と考証 日中国交正常化」(岩波書店)内での橋本中国課長の証言より。
毛沢東の言葉
「けんかはもうすみましたか けんかはさけられないものですよ」
「記録と考証 日中国交正常化」(岩波書店)より。また、今回番組スタッフが取材した中国側通訳、王効賢さんの証言より。
毛沢東の言葉
「あなたがたはあの『ご迷惑』問題をどのように解決しましたか」
『矢吹晋「激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実」(日経BP社)』に引用されている、中国外交部档案「日中国交正常化交渉記録」より。
田中角栄の言葉
「我々は中国の習慣に従って改めるよう、準備しています」
『矢吹晋「激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実」(日経BP社)』に引用されている、中国外交部档案「日中国交正常化交渉記録」より。
毛沢東の言葉
「しかし迷惑をかけたという言葉の使い方は日本の首相の方がうまいようですね」
日本に帰国した田中が自民党で行った報告会での発言より引用。1972年10月1日付毎日新聞記事等に記載あり。
周恩来の言葉
「これで日中間の新しい1ページが始まりましたね」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
田中角栄の言葉
「今日はもうこれで会議がないから大いに飲もう!」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
中国側の言葉
「田中先生は国交正常化に最も貢献した方。中国は永遠に忘れない」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。
田中の言葉
「首相当時の決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れた。私はこの20年間片時も目を離さず、日中関係を見つめてきたものである」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。 』
後味に苦味を感じる品が半数以上だった様に思います。
数年寝かせれば、丸くなるのでしょうか??
さて、ネットTSUTAYAでは、ご指名の名画2種は扱い無しでした。
取り急ぎ、ご報告まで。