八月も今日で終わりである。
苛烈に暑かった今年の夏も漸く終わりを迎えようとしている。
62年前の八月は太平洋戦争が終わった月である。
一つの時代の終わりは新しい時代の始まりである。
終わりが順調であれば、始まりも順調になる。しかし、いつも、終わりは順調であるという保証はない。
終わりには、混乱がつきまとう、順調に終わらせるためには、それを可能にする人が必要である。その人は、時代に呼ばれ、歴史の舞台に登場するのである。
時代に呼ばれた人とは、鈴木貫太郎総理、海軍大将と阿南惟幾陸軍大臣である。

鈴木貫太郎首相
鈴木貫太郎元海軍大将が、時代に呼び出されたのは、昭和20年4月7日、戦艦大和が海中に沈んだ日である。
その時、彼は79歳であった。日露戦争当時、現役で活躍した軍人である。時代が呼び出さなければ登場するはずのない老人である。
老人の彼が、呼び出されたのは、彼が至誠の人・人望の人であったからである。
( 鈴木貫太郎の事跡については、下記ウィキペディア(Wikipedia)参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
)
当時の状況を、年表で見ると。
1944年(昭和19年)
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡)。
6月19日 マリアナ沖海戦
7月18日 東條英機内閣総辞職
7月22日 小磯国昭内閣成立
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕
10月23日 レイテ沖海戦
10月24日 戦艦武蔵沈没(シブヤン海)
10月25日 神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。
1945年(昭和20年)
1月13日 三河地震が発生し、家屋倒壊と津波で2306名が死亡。情報統制によってほとんど報道されない。
2月 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
2月18日 硫黄島の戦い(~3月22日)
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
4月1日 沖縄戦(~6月23日)
4月5日 小磯国昭内閣総辞職
4月6日 菊水作戦発令
4月7日 戦艦大和沈没 鈴木貫太郎内閣成立
7月26日 ドイツのポツダムで英米ソ首脳会談、ポツダム宣言発表、日本これを黙殺。
8月6日 米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
8月8日 日ソ中立条約を破棄し、ソ連、日本に宣戦布告、満州国と朝鮮半島に侵攻。
8月9日 米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月10日 日本、連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告。
8月14日 終戦の詔が出される。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。支那派遣軍と南方軍これに抗議し戦闘続行。鈴木貫太郎内閣総辞職。
鈴木貫太郎を総理に推薦したのは、重臣とされているが、恐らく昭和天皇の意志を忖度してのことだろう。
昭和天皇の目には、この非常事態を終わらせることが出来るのは、その人となりをよく知る鈴木貫太郎以外にはなかったのである。
軍人は政治に関与せずという信条に従い、総理就任を固辞する鈴木に対し昭和天皇は御前に呼ばれ、「鈴木がそう申すであろうことは、 私にもわかっておった。しかしこの危急の時にあたって、もう今の世の中に人はいない」。次に、「頼むから、どうか、まげて承知して貰いたい」と言われた。
硫黄島、沖縄戦の次は本土決戦を準備する陸軍に対し戦争の時代を終わらせる勢力の中心は、昭和天皇および重臣達であった。
日に日に、敗色が濃くなる中、戦争続行勢力を押さえ込み、戦争を上手く終結させなければ、国民の犠牲はより大きくなる。終わらせなければ、新しい時代も始まらないとして、鈴木貫太郎を政治の舞台に呼び出したのである。
組閣を心ならずも引き受け、最後のご奉公をする決心を固めた鈴木が真っ先に向かったのは、陸軍である。杉山元帥に陸軍大臣として阿南惟幾大将を要請するためである。
つまり、時代に呼び出された鈴木が阿南を呼び出したのである。
阿南は前年の12月南方戦線の総司令官から内地に呼び戻されていたのである。翌19年1月頃には、小磯内閣の後継内閣の構想が重臣達の間で検討されていた事を考えると阿南もすでに時代に呼ばれていたと考えるのが順当である。能吏の東條では人心の収攬はできない、至誠の軍人でなければ下は抑えられないのである。
昭和天皇は、鈴木も阿南も人となりはよく承知しておられた。鈴木と阿南は、1929(昭和4)年から侍従長と侍従武官として天皇の側近く仕えていたのである。
その関係の中で、鈴木も阿南が信頼すべき人物・軍人であることを知悉していた。
(阿南の事跡については、下記ウィキペディア(Wikipedia)参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
)
組閣の4月から終戦の8月までの間、上の年表に見るように緊迫した状況が続いている。
戦争犯罪である2発の原爆投下を経て、終戦に到るまでの課題は、陸軍の暴発を防ぐことである。
鈴木は2.26事件では安藤輝三隊の襲撃を受けたが,夫人の機転により一命を取り留めた経験を持ち、軍の反乱の体験者である。
閣議で終戦を決めて、欧米と和平交渉を始める方法を採れば、クーデターは必死である。単純な方法は採れない。戦争継続を主張する陸軍・民間の暴発の引き金を引かせない方策・手順を採らなければならなかった。
鈴木が、考え出した離れ業が御聖断である。そして、陸軍に天皇の大御心を貫通させる人間として呼び出したのが阿南である。
通常、天皇は御前会議で自身の意見を言うことはない。立憲君主である天皇は会議の結論を裁可するのみである。
8月9日、ポツダム宣言を受諾し、戦争終結するのか、継続するのか御前会議で論議されたが、結論が得られるものではない。会議は延々と続くのみである。
東郷外相は受諾、阿南陸相は戦争継続、御前会議は3対3のまま膠着する。
阿南陸軍大臣自身も勇敢な軍人である。国体の護持・天皇制の存続が不透明なポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏することは陸軍を統帥する大臣として、受け入れられる段階ではまだ無いと考えて、戦争継続を主張する。
鈴木は、天皇陛下の聖慮をもって会議の結論としたいと切り出した。所謂御聖断である。
この御聖断なる手続きは、手続きとしては存在しない。立憲君主政体では、認められない手続きであると思う。
能吏では思いつかない、乱暴な方法である。この超法規的な手続きにより、ポツダム宣言受諾の結論が出たのである。
但し、天皇制の存続ということを明確にすることを求める事としている。
連合国は、日本の要望を拒否し、無条件降伏を回答する。天皇制の存続を巡って再照会をするかどうかで、再び東郷と阿南は対立する。
御聖断の後、右翼は和平派の暗殺を陸軍の幕僚の戦争継続派はクーデター計画を実行しようとする一触即発の情勢が続いている。
鈴木は、不慮をおそれ、再度の御聖断を仰ぐ決心をする。平和派の重臣達は、生命を賭していたのである。
今度は、天皇のお召しによる戦争最高指導会議の構成員と閣僚全員の合同の御前会議である。戦争継続派の抵抗を天皇の名において抑え込むというなりふり構わぬ手順である。
8月14日午前10時から始まった御前会議は、正午頃、国体護持を主張する軍部の反対意見に対する天皇陛下のお言葉で終わった。
「国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持ちもよくわかるが、しかし、わたくし自身はいかになろうとも、わたくしは国民の生命を助けたいと思う...」。
その後、閣議は、詔書作成、法的手続きに時間を要して、終戦の詔書は作成され、閣議決定され、午後11時に公布手続きが完了したのである。
翌8月15日正午天皇陛下の玉音放送は流され、戦いが終わったのである。
その間、鈴木首相は佐々木大尉の率いる「国民神風隊」の襲撃を受け小石川の私邸を焼かれたが、身体一つで逃げ出しており、阿南陸軍大臣は15日未明切腹自刃している
一つの時代が終わると言うことは、大変なことである。しかも、新しい時代の出発を妨げないように終わらせることは一層大変なことである。
それは、時代の呼ぶ至誠の人の腐心と尽力と犠牲無くしては成り立ち得ない事なのだろう。
〔後記〕
なお、本稿は下記によっている。詳しくは直接参照されたい。
「聖断-天皇と鈴木貫太郎-」 半藤一利 文藝春秋
WEBの記事では、下記が簡明である。
鈴木貫太郎
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog100.html
阿南惟幾
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html
勉強になりました。