<問答18>
お寺に定休日があってもよいか?
……それは寺ではない。思わぬ出来事に向き合うこどこそ仏教の真髄
問:
お寺は。年中無休が当然と云われていますが、本当でしょうか。正直なところ、せめて十日に一日くらい山門を開けなくてもいい日がほしいと思ったりします。土曜日曜には殆んど法事があり、子供と一緒に休暇を楽しむこともできず、ときには不憫に思います。聞けば、「毎週○曜日は休日です」と宣言しているお寺もあるらしいのですが、そんなことしてもいいのでしょうか。 〔住職と妻〕
世に生きていく以上働かねばならない。だが、自由な時間も欲しいと考えて会社員となった筆者には、玄侑氏の答えは別世界の考えだった。
玄侑師は答える。
「いいのでしょうかと訊かれれば、そりゃあ私はマズイと思いますよ。マズイという答より、それじゃあお役所や会社と一緒じゃないですか。すでにそれはお寺ではないと思います」
ここでも、玄侑師はお寺を「場」として説く。
其処では、週休二日制はない。
「あなたのお寺も仏教であるなら、いつ起こるかわからない何かに、常に対応できる場であってほしいと思います。
お寺や僧侶が尊敬されるのは何故だと思いますか
なんだかいきなり大上段になってしまいましたが、だいたいお寺や僧侶が尊敬されるのは何故だと思いますか。
いろんな答えがあでしょうが、私はいつでも自分の私的な都合を捨ててくれる人たちだからだと思っています。
そういう僧侶たちの姿をモデルにして、いつでもどこにでも駆けつけてくれるお地蔵さんが創りだされたのでしょう。お地蔵さんが手に持っている錫杖はそういう意味です。あらゆる仏像のなかでお地蔵さんだけが僧形であるのは、僧侶の無私性がモデルにされたからなのです。
出家というのも、本来、私的な気がかりをなくすためのシステムでしょう。あれが気がかり、これが気がかりであなたの所へ行けない、ということを避けようという側面も、出家にはあるはずです。
勝手に家庭を持ってしまったことは、これは歴史的な大問題ですのでここでは論じませんが、家庭を持ったとしても、僧侶に期待されるそういう側面は忘れてはいけないと思うのです。これはお寺の奥さん方にも充分理解していただきたいことです。
どうしても休日を設けたいというなら、まずは境内のお地蔵さんを撤去してからにしてください。またその際は、観音さまにもお引き取りいただくことになります。観音さまという方も、いつでも何にでも応じてくださる方。世間の悩み苦しむ声を無私の気持ちで見つめてくださる方です。その気がないになら、単なる装飾品みたいにお寺に祀らないでください。
思わぬ出来事にも、いつでも「あなただけのために」と
なんだか今日の私、激しいでしょうか。」
激しいですね。
このようなお坊さんであれば、お地蔵様ですから手を合わせて拝みたくなります。
お地蔵さんは知っているが。仏教本来の姿は知らないので調べてみた。
『地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、サンスクリット語クシティ・ガルバは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。
一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
...
概要
地蔵菩薩来迎図(南北朝時代、ボストン美術館所蔵)?利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。 元々は虚空蔵菩薩の虚空蔵と地蔵は対になっていたと思われる。しかし今では地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。
像容
一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い。
しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持つ。
功徳利益
]地蔵菩薩本願功徳経には、二十八種利益と七種利益が説かれている。
二十八種利益
天龍護念(天龍が保護してくれる)
善果日増(善いカルマが日々増していく)
集聖上因(聖にして上なるカルマが集まってくる)
菩提不退(悟りの境地から後退しない)
衣食豊足(衣服や食物に満ち足りる)
疾疫不臨(疫病にかからない)
離水火災(水難や火災を免れる)
無盗賊厄(盗賊による災厄に遭わない)
人見欽敬(人々が敬意を払って見てくれる)
神鬼助持(神霊が助けてくれる)
女転男身(女性から男性になれる[1])
為王臣女(王や大臣の令嬢になれる)
端正相好(端正な容貌に恵まれる)
多生天上(何度でも天上に生まれ変わる)
或為帝王(あるいは人間界に生まれ変わって帝王になる)
宿智命通(カルマを知る智慧を持ち、カルマに通ずる)
有求皆従(要求があれば皆が従ってくれる)
眷属歓楽(眷属が喜んでくれる)
諸横消滅(諸々の理不尽なことが消滅していく)
業道永除(カルマが永久に除かれる)
去処盡通(赴く場所にうまくいく)
夜夢安楽(夜は夢が楽しめる)
先亡離苦(先祖が苦しみから解放される)
宿福受生(幸福になる運命の人生を授かる)
諸聖讃歎(諸聖人が讃えてくれる)
聰明利根(聡明で利発になる)
饒慈愍心(慈悲の心に溢れる)
畢竟成佛(必ず仏になる)
七種利益
速超聖地(速やかに聖地を超える)
悪業消滅(悪いカルマが消滅する)
諸佛護臨(諸々の仏が護ってくれる)
菩提不退(悟りの境地から後退しない)
増長本力(本来持っていた能力が増幅される)
宿命皆通(カルマの全てに通ずる)
畢竟成佛(必ず仏になる)
...
日本における地蔵信仰
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。
また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。
...』(Wikipedia)
玄侑師は、葬式をはじめとして予め予定の立てられない勤めが多い僧侶は無休であると説く。
「 思わぬ出来事にもいつでも対応し、なんとか遣り繰りしながら、しかもそんな風情は見せずに「あなただけのために」というように泰然と向き合う。だからこそ和尚さんはありかたいんじゃないですか。
すべて「已むを得ないこと」「ご縁」だと思いませんか」
「お寺はいつも自然に溢れた田園であってほしいのです
おそらく多くのお寺が、都市化し、合理化されてきつつあるのだと思います。しかし仏教は都市を出た釈尊が、一旦は森へ入り、そこから田園昆戻ってきて開いた宗教です。
我々は予期せぬことの多い田園を故郷にもつ宗教者なのです。釈尊は、田園だからこそ「縁起の法」を悟ったのではないでしょうか。
陶淵明は「帰去来の辞」で「帰りなん、いざ。田園まさに蕪れなんとす」と叫びましたが、これはつまりコントロール思想に溢れた都市への決別宣言でしょう。
たとえお寺の場所は都市であったとしても、僧侶の心はいつも自然に溢れた田園であってはしいのです。」
と説く。
筆者が承知している僧侶は、必ずしも玄侑師が説くお地蔵様のような存在では無い。
寧ろ、派手な外車を乗り回したり、外国人の女に金をつぎ込んだり坊主のほうが多いのでわないかと思われる。
コンクリートジャングルのような都会に田園としてのお寺があり、其処にはお地蔵様のようなお坊さんが待っていてくれるのであれば、こんな素晴らしいことはない。
<問答23>
23 厄落としやお守りは、本当に効くのか?
……天災や事故に対して、お守りに祈るべきこととは
問:
尼崎で痛ましい電車脱線事故が起きましたが、このニュースをテレビで見ながら、檀家さんが住職の私に問いかけました。「同じ電車でも乗った車両のちょっとした違いが大きな開きを生みます。やっぱり人生は善悪ではなく、
運不運で決まるとしたら、運のよくなるお寺のお守りや身代わりお札なども、持ってたほうがいいんでしょうね。厄落としも必要でしょうね」。今回の事故や昨今の自然災害など人の突然の不幸について、住職はどう説くべきか、お教えいただければ幸いです。 〔住職〕
玄侑師は、人知の及ばない世界に、我々がどう関われるかという問題として捉える。
「自然現象をコントロールしたいという欲求を、昔から人間は抱いてきました。風雨や雷なども、中国では龍が引き起こすと考え、あんな生き物を考えだしたのです。その龍を、招いたり宥めたりする儀式が、道教や仏教にはあります。つまり、自然現象は基本的には制御不能と知りつつも、なんとか祈りが通じて変化しないかと、東洋人は考えたのでしょう。そういうことで、お守りやお札などは今も存在しつづけています。」
玄侑師は、祈りと運命の関係を説く。
今年は宝くじが当たりますようにとか家内安全、商売繁盛、学業成就、良縁成就、災厄消除などはお願いであり、祈りではない。
人間の運命は予め図ることが出来ない以上、願いの成就がその後の運命に同影響するかは解らない。
「あなたが変われば、世界が変わる。それは間違いありません。そして祈りとは、あなたが変わるはどのことでなければいけないのです。
はっきり言って、お守りや身代わりお札などは、我が身の幸せだけを祈っているかに見えます。しかしそんな誰でも願うことを競い合うために、それぞれがお守りやお札をいただくのでしょうか。たとえば同じような事故に遭っても死ぬ人と助かる人がいるのは、お守りやお札の効き目の違いなのでしょうか。
そうではないでしょう。
もしかすると和尚さんたちの中にも誤解してる方がいらっしゃるかもしれま廿んが、お守りやお札に込められた祈りは、その上うなエゴイスティックな祈りではありません。
私は、どんな事態が起こっても、それが天命つまり制御できない自然な現象なのだと、納得するためのアイテムとしてお守りやお札かおるのだと思っています。」
人間の理解力をはるかに超えた運命を天命と考える立場でお守りやお札の意味を説く。
「お守りやお札も、そりゃあ持てばいいですけど、持ってたからって、べつにあなたの考える幸運が訪れるとは限りませんよ。お守りやお札は、あなたがどんな状況に陥っても、それが不幸だと即断しないように持つものです。厄落としだってそうです。何か厄なのかは、すぐにはわかりません。文殊菩薩が汚い乞食の恰好でやってくるように、疫病神は福の神みたいな顔つきで来るものです。そんな判断を留保し、冷静に流れを見極め、心をニュートラルに、元気に保つ。お守りやお札を見たらそう思ってください。その上で事故に遭ってケガをしても、あるいは死んでしまっても、それは仕方ないじゃないですか。死んでしまったらプロセスもへったくれもないと思われるでしょうが、死ぬときは死ぬ、というのも、たぶんプロセスです。せっかくお守りやお札を持つのなら、どうか死ぬときも全てを甘受して、元気に死んでいってくださいね」と。
運命に対する禅者の態度は、明瞭だ。
先のテレビ番組で玄侑師は「成り行きを生きる」事を説いた。この問答でも、お札は「成り行きを生きる」ツールである。
この問答を読んで、大愚良寛の言葉を思い出した。
良寛が文政十一年三条の大地震の際に、与板の山田杜皐あて書いた手紙の一節である。
「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。
うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見るがわびしさ
しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」
成り行きを、心自由に生ききることが妙法だと言っているのである。
武術がスポーツ化するにつれて、伝統武術家は邪魔なのでしょうね。